い。ちゃんと、そうなってまっさかい」
男は再びにやにやした。
「よし、きいてみる」
小沢はむっとして起ち上った。
「あらッ」
その声を背中にきいて、小沢はその家を飛び出すと、その足で渡辺橋までかけつけた。
が、一日中居ると道子が云った筈の伊部の姿はその辺に見当らなかった。
読者は覚えているだろう。豹吉に川へ突き落された男があったことを――。
しかし、小沢は無論そんな事件を知る由もなかった。
小沢はまたしても憂鬱になった。
「おれのしてることは、行き違いばかしじゃないか」
駅へ荷物を取りに行けば、いつの間にかなくなっているし、伊部の所に雪子の著物を借りに行けば、家財道具を差し押えられている最中だ。おまけに、伊部に会いに渡辺橋まで来てみれば、よりによって姿が見当らない。
わずかに、奇怪な刺青の男の住家をたしかめたことと、伊部の妹の道子に会うたことだけが収獲だと――言えば言えた。
刺青の男の住家をたしかめたことは、べつに大したことではない。ちょっとした好奇心にかられただけに過ぎないかも知れない。
が、すくなくとも昨夜雪子を拾ったのは、あの男の近所だった。
だから、どうだ……ときかれても、咄嗟に答えられるわけではなかったが、しかし……。
「――もしかしたら……何かが……」
あるのではなかろうかという予感が、ないわけでもなかった。
「とにかく宿へ帰ってみよう」
著物を持たずに帰ったところで致し方はないが、しかし、寿司の土産はある。
著物を手に入れるあてもなく、まごまごしていたずらに時間を空費しておれば、雪子の空腹は増すばかりだと、小沢は淀屋橋から地下鉄に乗った。
(作者はここで再び註釈をはさみたい。――即ち、偶然というものは、続き出すときりがない……と。)
亀吉が同じ車輛に乗り合わせていたのだ。
しかし、小沢は亀吉の顔には見覚えはなかった。たとえ亀吉の顔を見ても、それが自分の荷物を横取りした男だとは、気がつかなかった。
亀吉の方でも、小沢に気がつかなかった。
車内が混んでいたからだ。
ところが、電車が大国町の駅を発車して間もなく――。
「掏摸だ」
という声があった。
声はすぐ人ごみの隙間を伝わり、
「掏摸だ、掏摸だ」
真青な唇と、不安な唇と、好奇的な唇が、右へ向き、左へ向いた。
何を見ても、何をきいても、日々これ驚くべきことばか
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