道子は小沢の名を言う時、急に赧くなった。
「――兄さんに忠告して下さい」
「で、兄さんは今どこにいるんですか」
「たぶん渡辺橋の方だと思います」
「何をしに……?」
「何もすることがないので、毎日朝早くから魚を釣りに行っているんです」
 情なそうに、道子は言った。

「魚釣り……?」
 など、するような伊部ではなかったのだ。研究と仕事以外には、何一つ道楽も趣味もない男で、欠伸する暇もないくらい、医学の仕事に全身を打ち込んでいたのだ。
「ええ」
 と、道子は小沢に答えた。
「――朝暗い内から起きて、出て行くんです。そして、一日中渡辺橋のところで、坐ってるんです」
「釣れるんですか」
 小沢は愚にもつかぬ質問をした。それよりほかに、何か言うべきことを知らない――それほど呆れ返っていたのだろう。
「さア、どうですか。一匹も持って帰ったことはありませんの。釣ったのは、みな川へ逃がしてやるらしいですの」
 その悲しそうな声は、小沢の胸を痛めた。
「伊部の奴!」
 と唇を噛んで、ふと壁に掛った野口英世の写真を見あげて、
「――僕これから行って、言いきかせてやります」
「お願いします」
「じゃ……」
 起ち上ろうとするのを道子は、
「あらッ。――いまお茶を入れますから……」
 このまま小沢が帰ってしまうことが、思いがけず寂しかった。
 がなぜ、そんなに寂しいのだろう。
「そうですね。じゃお茶だけ……」
 いただきましょうと、小沢は坐り直したが、しなければならないことが山ほどありながら、ふと自分をひきとめたものは、一体何であろうかと、小沢は道子の顔から、あわてて眼をそらした。
 その拍子に、雪子の顔がちらと浮んだ。自分の帰りを待っている雪子の顔が……。著物、帯、下駄……。
 道子は湯呑みを出そうとして、水屋の戸をあけようとした。
 その時、いきなりはいって来た男が、
「おっと……、それ、あけちゃ困りまっせ」
 と、道子の手を払おうとした。
「なぜいけないんだ?」
 小沢は道子の分までむっとして怒鳴るように言った。
「封印がしてまっさかいな」
 男はにやにやした。
「一体、伊部君はいくら借りたんです」
「千円です」
 道子が言うのと同時に、男は、
「二万三千円……。元利合計してまっさかいな。へ、へ、へ……」
「千円が二万三千円……? そんな莫迦な……」
「伊部さんにきいてみなさ
前へ 次へ
全71ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング