へ移つて来て重なり合つたことになるわけだと、この二重写しで写された遠いかずかずの青春にいま濡れる思ひで、雨の口繩坂を降りて行つた。
半月余り経つてその傘を返しに行くと、新坊落第しましたよと、主人は顔を見るなり言つた。あの中学そんなに競争がはげしかつたかな、しかし来年もう一度受けるといふ手もありますよと慰めると、主人はいやもう学問は諦めさせて、新聞配達にしましたとこともなげに言つて、私を驚かせた。女の子は女学校ぐらゐ出て置かぬと嫁に行く時肩身の狭いこともあらうと思つて、娘は女学校へやつたが、しかし男の子は学問がなくても働くことさへ知つてをれば、立派に世間へ通るし人の役に立つ、だから不得手な学問は諦めさせて、働くことを覚えさせようと新聞配達にした、子供の頃から身体を責めて働く癖をつけとけば、きつとましな人間になるだらうといふのであつた。
帰り途、ひつそりと黄昏《たそが》れてゐる口繩坂の石段を降りて来ると、下から登つて来た少年がピヨコンと頭を下げて、そのままピヨンピヨンと行つてしまつた。新聞をかかへ、新坊であつた。その後私は新坊が新聞を配り終へた疲れた足取りで名曲堂へ帰つて来るのを、何度か目撃したが、新坊はいつみても黙つて硝子扉《ガラスど》を押してはいつて来ると、そのまま父親にも口を利かずにこそこそ奥へ姿を消してしまふのだつた。レコードを聴いてゐる私に遠慮して声を出さないのであらうか、ひとつにはもともと無口らしかつた。眉毛は薄いが、顔立ちはこぢんまりと綺麗にまとまつて、半ズボンの下にむきだしにしてゐる足は、女の子のやうに白かつた。新坊が帰つて来ると私はいつもレコードを止めて貰つて、主人が奥の新坊に風呂へ行つて来いとか、菓子の配給があつたから食べろとか声を掛ける隙をつくるやうにした。奥ではうんと一言返辞があるだけだつたが、父子の愛情が通ふ温さに私はあまくしびれて、それは音楽以上だつた。
夏が来ると、簡閲点呼の予習を兼ねた在郷軍人会の訓練がはじまり、自分の仕事にも追はれたので、私は暫く名曲堂へ顔を見せなかつた。七月一日は夕陽丘の愛染堂のお祭で、この日は大阪の娘さん達がその年になつてはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いてゐたが、私は行けなかつた。七月九日は生国魂《いくたま》の夏祭であつた。訓練は済んでゐた。私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ばうと思つた。そして祭の夜店で何か買つてやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にゐるとのことであつた。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを新坊に送つてやつてくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行つた。
その日行つたきり、再び仕事に追はれて名曲堂から遠ざかつてゐるうちに、夏は過ぎた。部屋の中へ迷ひ込んで来る虫を、夏の虫かと思つて団扇《うちは》で敲《たた》くと、チリチリと哀れな鳴声のまま息絶えて、もう秋の虫である。ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいつたから、お暇の時に寄つてくれと娘さんの字らしかつた。ボードレエルの「旅への誘ひ」をデュパルクの作曲でパンセラが歌つてゐる古いレコードであつた。このレコードを私は京都にゐた時分持つてゐたが、その頃私の下宿へ時々なんとなく遊びに来てゐた女のひとが誤つて割つてしまひ、そしてそのひとはそれを苦にしたのかそれきり顔を見せなくなつた。肩がずんぐりして、ひどい近眼であつたが、二年前その妹さんがどうして私のことを知つたのか、そのひとの死んだことを知らせてくれた時、私は取り返しのつかぬ想ひがした。そんなわけでなつかしいレコードである。本来が青春と無縁であり得ない文学の仕事をしながら、その仕事に追はれてかへつてかつての自分の青春を暫らく忘れてゐた私は、その名曲堂からの葉書を見て、にはかになつかしく、久し振りに口繩坂を登つた。
ところが名曲堂へ行つてみると、主人は居らず、娘さんがひとり店番をしてゐて、父は昨夜から名古屋へ行つてゐるので、ちやうど日曜日で会社が休みなのを幸ひ、かうして留守番をしてゐるのだといふ。聴けば、新坊が昨夜工場に無断で帰つて来たのだ。一昨夜寄宿舎で雨の音を聴いてゐると、ふと家が恋しくなつて、父や姉の傍で寝たいなと思ふと、今までになかつたことだのに、もうたまらなくなり、ふらふら昼の汽車に乗つてしまつたのやいふ言ひ分けを、しかし父親は承知せずに、その晩泊めようとせず、夜行に乗せて名古屋まで送つて行つたといふことだつた。一晩も泊めずに帰してしまつたかと想へば不憫《ふびん》でしたが、といふ娘さんの口調の中に、私は二十五の年齢を見た。二十五といへば稍《やや》婚期遅れの方だが、しかし清潔に澄んだ瞳には屈
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