託《くつたく》のない若さがたたへられてゐて、京都で見た頃まだ女学校へはいつたばかしであつたこのひとの面影も両の頬に残つて失はれてゐず、凛《りん》とした口調の中に通《かよ》つてゐる弟への愛情にも、素直な感傷がうかがはれた。しかし愛情はむしろ五十過ぎた父親の方が強かつたのではあるまいか。主人は送つて行く汽車の中で食べさせるのだと、昔とつた庖丁によりをかけて自分で弁当を作つたといふ。
 この父親の愛情は私の胸を温めたが、それから十日ばかし経つて行くと、主人は私の顔を見るなり、新坊は駄目ですよと、思ひがけぬわが子への苦情だつた。訓《さと》されて帰つたものの、やはり家が恋しいと、三日にあげず手紙が来るらしかつた。働きに行つて家を恋しがるやうでどうするか、わたしは子供の時から四十の歳まで船に乗つてゐたが、どこの海の上でもそんな女々しい考へを起したことは一度もなかつた。馬鹿者めと、主人は私に食つて掛るやうに言ひ、この主人の鞭《むち》のはげしさは意外であつた。帰りの途は暗く、寺の前を通るとき、ふと木犀《もくせい》の香が暗がりに閃《ひらめ》いた。
 冬が来た。新坊がまたふらふらと帰つて来て、叱られて帰つて行つたといふ話を聴いて、再び胸を痛めたきり、私はまた名曲堂から遠ざかつてゐた。主人や娘さんはどうしてゐるだらうか、新坊は一生懸命働いてゐるだらうかと、時にふれ思はぬこともなかつたが、そしてまた、始終来てゐた客がぷつつり来なくなることは名曲堂の人たちにとつても淋しい気がすることであらうと気にならぬこともなかつたが、出不精《でぶしやう》の上に、私の健康は自分の仕事だけが精一杯の状態であつた。欠かせぬ会合にも不義理勝ちで、口繩坂は何か遠すぎた。そして、名曲堂のこともいつか遠い想ひとなつてしまつて、年の暮が来た。
 年の暮は何か人恋しくなる。ことしはもはや名曲堂の人たちに会へぬかと思ふと、急に顔を見せねば悪いやうな気がし、またなつかしくもなつたので、すこし風邪気だつたが、私は口繩坂を登つて行つた。坂の途中でマスクを外して、一息つき、そして名曲堂の前まで来ると、表戸が閉つてゐて「時局に鑑《かんが》み廃業仕候」と貼紙がある。中にゐるのだらうと、戸を敲《たた》いたが、返辞はない。錠が表から降りてゐる。どこかへ宿替へしたんですかと、驚いて隣の標札屋の老人にきくと、名古屋へ行つたといふ。名古屋といへば新坊の……と重ねてきくと、さいなと老人はうなづき、新坊が家を恋しがつて、いくら言ひきかせても帰りたがるので、主人は散々思案したあげく、いつそ一家をあげて新坊のゐる名古屋へ行き、寝起きを共にして一緒に働けば新坊ももう家を恋しがることもないわけだ、それよりほかに新坊の帰りたがる気持をとめる方法はないし、まごまごしてゐると、自分にも徴用が来るかも知れないと考へ、二十日ほど前に店を畳んで娘さんと一緒に発《た》つてしまつた、娘さんも会社をやめて新坊と一緒に働くらしい、なんといつても子や弟いふもんは可愛いもんやさかいなと、もう七十を越したかと思はれる標札屋の老人はぼそぼそと語つて、眼鏡を外し、眼やにを拭いた。私がもとこの町の少年であつたといふことには気づかぬらしく、私ももうそれには触れたくなかつた。
 口繩坂《くちなはざか》は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。
[#地から1字上げ](昭和十九年三月)



底本:「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」筑摩書房
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:山根鋭二
校正:湯地光弘
1999年10月2日公開
2005年10月1日修正
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