りむつつり音楽を聴くといふのも何かチグハグであらう。しかし、私はその主人に向つて、いきなり善書堂のことや町のことなどを話しかける気もべつだん起らなかつたので、黙つて何枚かのレコードを聴いた。かつて少年倶楽部から笑話の景品に二十四穴のハモニカを貰ひ、それが機縁となつて中学校へはいるとラムネ倶楽部《クラブ》といふハモニカ研究会に籍を置いて、大いに音楽に傾倒したことなど想ひ出しながら、聴き終ると、咽喉《のど》が乾いたので私は水を所望し、はい只今と主人がひつこんだ隙に、懐中から財布をとりだしてひそかに中を覗いた。主人はすぐ出て来て、コップを置く前に、素早く台の上を拭いた。
 何枚かのレコードを購《もと》めて出ようとすると、雨であつた。狐の嫁入りだから直ぐやむだらうと暫らく待つてゐたが、なかなかやみさうになく、本降りになつた。主人は私が腕時計を覗いたのを見て、お急ぎでしたら、と傘を貸してくれた。区役所からの帰り、市電に乗らうとした拍子に、畳んだ傘の矢野といふ印が眼に止まり、あゝ、あの矢野だつたかと、私ははじめて想ひだした。
 京都の学生街の吉田に矢野精養軒といふ洋食屋があつた。かつてのそこの主人が、いま私が傘を借りて来た名曲堂の主人と同じ人であることを想ひだしたのである。もう十年も前のこと故、どこかで見た顔だと思ひながらにはかに想ひ出せなかつたのであらうが、想ひ出して見ると、いろんな細かいことも記憶に残つてゐた。以前から私は財布の中にいくらはいつてゐるか知らずに飲食したり買物したりして、勘定が足りずに赤面することがしばしばであつたが、矢野精養軒の主人はそんな時気前よく、いつでもようござんすと貸してくれたものである。ポークソテーが店の自慢になつてゐたが、ほかの料理もみな美味《うま》く、ことに野菜は全部|酢漬《すづ》けで、セロリーはいつもただで食べさせてくれ、なほ、毎月新譜のレコードを購入して聴かせてゐた。それが皆学生好みの洋楽の名曲レコードであつたのも、今にして想へば奇《く》しき縁ですねと、十日ほど経つて傘を返しがてら行つた時主人に話すと、あゝ、あなたでしたか、道理で見たことのあるお方だと思つてゐましたが、しかし変られましたなと、主人はお世辞でなく気づいたやうで、そして奇しき縁といへば、全くをかしいやうな話でしてねと、こんな話をした。
 主人はもと船乗りで、子供の頃から欧洲航路の船に雇はれて、鑵炊《かまた》きをしたり、食堂の皿洗ひをしたりコックをしたりしたが、四十の歳に陸へ上つて、京都の吉田で洋食屋をはじめた。が、コックの腕に自信があり過ぎて、良い材料を使つて美味いものを安く学生さんに食べさせるといふことが商売気を離れた道楽みたいになつてしまつたから、儲けるといふことには無頓着で、結局月々損を重ねて行つたあげく、店はつぶれてしまつた。すつかり整理したあとに残つたのは、学生さんに聴かせるためにと毎月費用を惜しまず購入して来たままに溜つてゐた莫大な数の名曲レコードで、これだけは手放すのが惜しいと、大阪へ引越す時に持つて来たのが、とどのつまり今の名曲堂をはじめる動機になつたのだといふ。そして、よりによつてこんな辺鄙《へんぴ》な町で商売をはじめたのは、売れる売れぬよりも老鋪代《しにせだい》や家賃がやすかつたといふただそれだけの理由、人間も家賃の高いやすいを気にするやうではもうお了ひですなと、主人はふと自嘲的な口調になつて、わたしも洋食屋をやつたりレコード店をやつたり、随分永いこと少しも世の中の役に立たぬ無駄な苦労をして来ました、四十の歳に陸へ上つたのが間違ひだつたかも知れません。あんなものを飾つて置いてもかへつて後悔の種ですよと、壁に掛つた船の浮袋を指して、しかしわたしもまだ五十三です、……まだまだと言つてゐるところへ、只今とランドセルを背負つた少年がはいつて来て、新坊、挨拶せんかと主人が言つた時には、もうこそこそと奥へ姿を消してしまつてゐた。どうも無口な奴でと、しかし主人はうれしさうに言ひ、こんど中学校を受けるのだが、父親に似ず無口だから口答試問が心配だと、急に声が低くなつた。たしかお子さんは二人だつたがと言ふと、ああ、姉の方ですか、あの頃はあなたまだ新坊ぐらゐでしたが、もうとつくに女学校を出て、今北浜の会社へ勤めてゐますと、主人の声はまた大きくなつた。
 帰らうとすると、また雨であつた。なんだか雨男になつたみたいですなと私は苦笑して、返すために持つて行つた傘をその儘また借りて帰つたが、その傘を再び返しに行くことはつまりはその町を訪れることになるわけで、傘が取り持つ縁だと私はひとり笑つた。そして、敢《あへ》て因縁《いんねん》をいふならば、たまたま名曲堂が私の故郷の町にあつたといふことは、つまり私の第二の青春の町であつた京都の吉田が第一の青春の町
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