木の都
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)生国魂《いくたま》神社
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千日前|界隈《かいわい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和十九年三月)
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大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。
それは生国魂《いくたま》神社の境内の、巳《み》さんが棲《す》んでゐるといはれて怖《こは》くて近寄れなかつた樟《くす》の老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池に落《はま》つた時に濡れた着物を干した銀杏《いちやう》の木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂《げんしやうじざか》や口繩坂《くちなはざか》を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
試みに、千日前|界隈《かいわい》の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津《かうづ》の高台、生玉《いくたま》の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼《うつそう》たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。
そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた。高台にある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の町は、寺院を中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかへつてゐるのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがはれるけれども、しかし例へば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などといふ町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂ひがむんむん漂うてゐた。上町の私たちは下町の子として育つて来たのである。
路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を
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