ばうと思つた。そして祭の夜店で何か買つてやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にゐるとのことであつた。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを新坊に送つてやつてくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行つた。
その日行つたきり、再び仕事に追はれて名曲堂から遠ざかつてゐるうちに、夏は過ぎた。部屋の中へ迷ひ込んで来る虫を、夏の虫かと思つて団扇《うちは》で敲《たた》くと、チリチリと哀れな鳴声のまま息絶えて、もう秋の虫である。ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいつたから、お暇の時に寄つてくれと娘さんの字らしかつた。ボードレエルの「旅への誘ひ」をデュパルクの作曲でパンセラが歌つてゐる古いレコードであつた。このレコードを私は京都にゐた時分持つてゐたが、その頃私の下宿へ時々なんとなく遊びに来てゐた女のひとが誤つて割つてしまひ、そしてそのひとはそれを苦にしたのかそれきり顔を見せなくなつた。肩がずんぐりして、ひどい近眼であつたが、二年前その妹さんがどうして私のことを知つたのか、そのひとの死んだことを知らせてくれた時、私は取り返しのつかぬ想ひがした。そんなわけでなつかしいレコードである。本来が青春と無縁であり得ない文学の仕事をしながら、その仕事に追はれてかへつてかつての自分の青春を暫らく忘れてゐた私は、その名曲堂からの葉書を見て、にはかになつかしく、久し振りに口繩坂を登つた。
ところが名曲堂へ行つてみると、主人は居らず、娘さんがひとり店番をしてゐて、父は昨夜から名古屋へ行つてゐるので、ちやうど日曜日で会社が休みなのを幸ひ、かうして留守番をしてゐるのだといふ。聴けば、新坊が昨夜工場に無断で帰つて来たのだ。一昨夜寄宿舎で雨の音を聴いてゐると、ふと家が恋しくなつて、父や姉の傍で寝たいなと思ふと、今までになかつたことだのに、もうたまらなくなり、ふらふら昼の汽車に乗つてしまつたのやいふ言ひ分けを、しかし父親は承知せずに、その晩泊めようとせず、夜行に乗せて名古屋まで送つて行つたといふことだつた。一晩も泊めずに帰してしまつたかと想へば不憫《ふびん》でしたが、といふ娘さんの口調の中に、私は二十五の年齢を見た。二十五といへば稍《やや》婚期遅れの方だが、しかし清潔に澄んだ瞳には屈
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