た。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中《まんなか》にぺたりと坐り込み、腕《うで》ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線の撥《ばち》で撲られた跡《あと》を押《おさ》えようともせず、ごろごろしていた。
 もうこれ以上|節約《しまつ》の仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋《ごふくや》に物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会《しお》に、いつまでも二階借りしていては人に侮《あなど》られる、一軒借りて焼芋屋《やきいもや》でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託《いたく
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