ヒネだからたびたびの注射は危険だ」と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」と眼をしばたいた。弟の信一は京都|下鴨《しもがも》の質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
 こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。手術と決ってはいたが、手術するまえに体に力《りき》をつけておかねばならず、舶来《はくらい》の薬を毎日二本ずつ入れた。一本五円もしたので、怖《こわ》いほど病院代は嵩んだのだ。蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。が、焼石に水だった。手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影《おもかげ》を失うた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。
 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけが会《お》うてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得《じごうじとく》、そんな言葉も彼は吐《は》いた。「この家の身代は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻《しり》を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。種吉の所へ行き、お辰の病床《びょうしょう》を見舞うと、お辰は「私《わて》に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん[#「ほうれん」に傍点]草|炊《た》いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅《おそ》いと散々|叱言《こごと》を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」とわめき散らした。水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田《たんでん》に力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。
 あくる日、十二三の女の子を連れて若い女が見舞に来た。顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。はっと緊張《きんちょう》し、「よう来てくれはりました」初対面の挨拶代りにそう言った。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭を撫《な》でると、顔をしかめた。
 一時間ほどして帰って行った。夫に内緒で来たと言った。「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。送って廊下《ろうか》へ出ると、妹は「姉《ねえ》はんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれとる、こない言うたはります」と言い、そっと金を握らした。蝶子は白粉気《おしろいけ》もなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子は本真《ほんま》のことと思いたかった。柳吉の父親に分ってもらうまで十年掛ったのだ。姉さんと言われたことも嬉しかった。だから、金はいったん戻す気になった。が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。有難かった。そわそわして落ちつかなかった。
 夕方、電話が掛って来た。弟の声だったから、ぎょっとした。危篤《きとく》だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は「水くれ」を叫んでいた。そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。蝶子は椅子に腰掛けて、じっと腕組みした。そこへ泪が落ちるまで、大分時間があった。秋で、病院の庭から虫の声もした。
 どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。急に、「維康さん、お電話でっせ」胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息を引きとらはりましたぜ」とのことだった。そのまま病院を出て駆けつけた。「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」近所の女達の赤い目がこれ見よがしだった。三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今更の死水《しにみず》を唇につけるなど、蝶子は勢一杯《せいいっぱい》に振舞った。「わての亭主も病気や」それを自分の肚への言訳にして、お通夜《つや》も早々に切り上げた。夜更けの街を歩いて病院へ帰る途々《みちみち》、それでもさすがに泣きに泣けた。病室へは
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