》している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連《つ》れ戻《もど》した。そして所望《しょもう》されるままに曾根崎《そねざき》新地《しんち》のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地《したじ》ッ子《こ》)にやった。
種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金|払《ばら》いでみるみる消えたが、あとにも先にも纏《まと》まって受けとったのはそれきりだった。もとより左団扇《ひだりうちわ》の気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽《ろうばい》した。お披露目《ひろめ》をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀《しゅうぎ》、衣裳《いしょう》、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主《かかえぬし》が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛《しば》る勘定《かんじょう》になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境《かんきょう》に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々《だだ》をこねられると、負けて、種吉は随分工面した。だから、辛《つら》い勤めも皆《みな》親のためという俗句は蝶子に当て嵌《はま》らぬ。不粋《ぶすい》な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……と訊《き》かれると、父親は博奕打《ばくちう》ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄《とちがら》、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、私《わて》を芸者にしてくれんようなそんな薄情《はくじょう》な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当《かんどう》さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のお父つぁんは旦《だん》さんみたいにええ男前や」と外《そ》らしたりして悪趣味《あくしゅみ》極まったが、それが愛嬌《あいきょう》になった。――蝶子は声自慢《こえじまん》で、どんなお座敷《ざしき》でも思い切り声を張り上げて咽喉《のど》や額に筋を立て、襖紙《ふすまがみ》がふるえるという浅ましい唄《うた》い方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬ妓《こ》であったから、はっさい(お転婆《てんば》)で売っていたのだ。――それでも、たった一人《ひとり》、馴染《なじ》みの安化粧品問屋《やすけしょうひんどんや》の息子《むすこ》には何もかも本当のことを言った。
維康柳吉《これやすりゅう
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