放浪
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)現糞《げんくそ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一番|沢山《ぎょうさん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しみつき[#「しみつき」に傍点]
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一
大阪は二ツ井戸「まからんや」呉服店の番頭は現糞《げんくそ》のわるい男や、云うちゃわるいが人殺しであると、在所のお婆は順平にいいきかせた。
――「まからんや」は月に二度、疵ものやしみつき[#「しみつき」に傍点]や、それから何じゃかや一杯呉服物を一反風呂敷にいれ、南海電車に乗り、岸和田で降りて二里の道あるいて六貫村へ着物《べべ》売りに来ると、きまって現糞わるく雨が降って、雨男である。三年前にも来て降らせた。よりによって順平のお母が産気づいて、例《いつ》もは自転車に乗って来るべき産婆が雨降っているからとて傘さして高下駄はいてとぼとぼ辛気臭かった。それで手違うて、順平は産れたけれど、母親はとられた。兄の文吉は月たらずゆえきつい難産であつたけれど、その時ばかりは天気運が良くて……。
聴いて順平は何とも感じなかった。そんな年でもなく、寝床にはいって癖で足の親指と隣の指をすり合わせていると、きまってこむら返りして痛く、またうっとりした。度重なるうち、下腹が引きつるような痛みに驚いたが、お婆は脱腸の気だとは感付かなかった。寝いると小便をした。お婆は粗相を押えるために夜もおちおち寝ず、濡れていると敲き起し、のう順平よ、良う聴きなはれや。そして意地わるい快感で声も震え、わりや継子やぞ。
泉北郡六貫村よろずや雑貨店の当主高峰康太郎はお婆の娘のおむらと五年連れ添い、文吉、順平と二人の子までなしたる仲であったが、おむらが産で死ぬと、これ倖いと後妻をいれた。これ倖いとはひょっとすると後妻のおそでの方で、康太郎は評判のおとなしい男で財産も少しはあった。兄の文吉は康太郎の姉聟の金造に養子に貰われたから良いが、弟の順平は乳飲子で可哀相だとお婆が引き取り、ミルクで育てている。お婆が死ねば順平は行きどころが無いゆえ継母のいる家へ帰らねばならず、今にして寝小便を癒して置かねば所詮いじめられる。後妻には連子があり、おまけに康太郎の子供も産んで、男の子だ。
……お婆はひそかに康太郎を恨んでいたのであろうか。順平さえ娘の腹に宿らなんだら、まからんやが雨さえ降らせなんだらと思い、一途に年のせいではなかった。云うまじきことを云い聴かせるという残酷めいた喜びに打負けるのが度重って、次第に効果はあった。継子だとはどんな味か知らぬが、順平は七つの頃から何となく情けない気持が身にしみた。お婆の素振りが変になり、みるみるしなびて、死んで、順平は父の所に戻された。
ひがんでいるという言葉がやがて順平の身辺をとりまいた。一つ違いの義弟《おとうと》と二つ違いの義姉《あね》がいて、その義姉が器量よしだと子供心にも判った。義姉は母の躾がよかったのか、村の小学校で、文吉や順平の成績が芳しくないのは可哀相だと面と向って云うのだ。兄の文吉はもう十一であるから何とか云いかえしてくれるべきだのに、いつもげらげら笑っていた。眼尻というより眼全体が斜めに下っていて、笑えば愛敬よく、また泣き笑いにも見られた。背が順平よりも低く、顔色も悪かった。頼りない男であったが、順平には頼るべきたった一人の兄だったから、学校がひけると、文吉の後に随いて金造の家へ行くことにした。
金造は蜜柑山をもち、慾張りと云われた。男の子がなく、義理で養子にいれたが、岸和田の工場で働かせている娘が子供をもうけ、それが男の子であったから、いきなり気が変り、文吉はこき使われた。牛小屋の掃除をした。蜜柑をむしった。肥料を汲んだ。薪を割った。子守をした。その他いろいろ働いた。順平は文吉の手だすけをした。兄よ、わりゃ教場で糞したとな。弟よ、わりゃ寝小便止めとけよ。そんなことを云いかわして喜んでいた。
康太郎の眼はまだ黒かったが、しかしこの父はもう普通の人ではなかった。悪性の病をわずらって悪臭を放ち、それを消すために安香水の匂いをプンプンさせていたが、そんな頭の働かせ方がむしろ不思議だとされていた。寝ていると、壁に活動写真がうつるようであった。ある日、浪花節語りが店の前に来て語っているから見て来いといい、順平が行こうとすると、継母は呶鳴りつけて、われも狂人か、そう云って継母はにがにがし気であった。その日から衰弱はげしく、大阪生玉前町の料理仕出し屋丸亀に嫁いでいる妹のおみよがかけつけると、一瞬正気になり、間もなく康太郎は息をひきとった。
焼香順のことでおみよ叔母は継母のおそでと口喧嘩した。それでは何ぼ何でも文吉や順平が可哀相やと叔母は云い、気晴しに紅葉を見るのだとて二人を連れて近くの牛滝山へ行った。滝の前の茶店で大福餅をたべさせながらおみよ叔母は、叔母さんの香典はどこの誰よりも一番|沢山《ぎょうさん》やさかいお前達は肩身が広いと聴かせ、そしてぽんと胸をたたいて襟を突きあげた。
十歳の順平はおみよ叔母に連れられて大阪へ行った。村から岸和田の駅まで二里の途は途中に池があった。大きな池なので吃驚した。順平は国定教科書の「作太郎は父に連れられて峠を……」という文句を何となく想出したが、後の文句がどうしても頭に泛んで来なかった。見送るといって随いて来た文吉は、順平よ、わりゃ叔母さんの荷物もたんかいやとたしなめた。順平は信玄袋を担いでいたが、左の肩が空いていたのだ。文吉の両肩には荷物があった。叔母はしかし、蜜柑の小さな籠をもっているだけで、それは金造が土産にくれたもの、何倍にもなってかえる見込がついていた。
岸和田の駅から引返す文吉が、直きに日が暮れて一人歩きは怖いこっちゃろと、叔母は同情して五十銭呉れると、文吉は、金はいらぬ、金造叔父がわしの貯金帳こしらえてくれると云って受取らず、帰って行った。そんなことがあるものか、文吉は金造に欺されている、今に思い知る時があるやろと、電車が動き出して叔母は順平に云った。はじめて乗る電車にまごついて、きょろきょろしている順平は、碌々耳にはいらなかった。電車が難波に着くと、心に一寸した張りがついた。大阪へ行ったらしっかりせんと田舎者やと笑われるぞと、兄らしくいましめてくれた文吉の言葉を想出したのだ。
叔母の家についた。眩い電灯の光でさまざまな人に引き合わされたが、耳の奥がじーんと鳴り、人の顔がすッーと遠ざかって小さくなったり、急にでっかく見えたり、さすがに呆然としていた。しッかりしよと下腹に力をいれると差し込んで来て、我慢するのが大変だった。香典返えしや土産物を整理していた叔母が、順ちゃんよ、お前の学校行きの道具はときくと、すかさず、ここにあら。信玄袋から取出してみせ、はじめて些か得意であった。然るに「ここにあら」がおかしいと嗤《わら》われて、それは叔母の娘で、尋常一年生だから自分より一つ年下の美津子さんだとあとで知った。美津子は虱を湧かしていてポリポリ頭をかいていたが、その手が吃驚するほど白かった。
遅い夕飯が出された。刺身などが出されたから、まごついて下をむいたまま黙々とたべ終り、漬物の醤油の余りを嘗めていると、叔母は、お前は今日から丸亀のぼんぼん[#「ぼんぼん」に傍点]やさかいそんなけちんぼ[#「けちんぼ」に傍点]な真似せいでもええといい、そして女中の方を向いてわざとらしい泪を泛べた。酒をのんでいた叔父が二こと三こと喋ると叔母は、猫の子よりましだんがナと云った。ふんと叔父はうなずいて、しかしえらい痩せとるなアと云った。
さっぱりした着物を着せられたが、養子とは兄の文吉のようなものだと思っていた身に、何かしっくりしない気持がした。買喰いの銭を与えられると、不思議に思った。田舎の家は雑貨屋で、棒ねじ、犬の糞、どんぐりなどの駄菓子を商っているのに、手も出せなかったのだ。一と六の日は駒ヶ池の夜店があり、丸亀の前にも艶歌師が立ったり、アイスクリン屋が店を張ったりした。二銭五厘ずつ貰って美津子と夜店に行く時は、帯の中に銅貨をまきこんで、都会の子供らしい見栄を張った。しかし、筍をさかさにした形のアイスクリンの器をせんべいとは知らず、中身を嘗めているうちに器が破けてはっとし、弁償しなければならぬと蒼くなって嗤われるなど、いくら眼をキョロキョロさせていても、やはり以後かたくいましめるべき事が随分多かった。
ある日銭湯へ行くといって家を出た。道分ってんのかとの叔母の声をきき流して、分ってまんがな。流暢に出た大阪弁に弾みつけられてどんどん駆け出し、勢よく飛び込んでみると、おやッ! 明るいところから急に変った暗さの中にも、大分容子が違うとやがて気が付いて、わいは……、わいは……、あとの声が出ず、いきなり引きかえしたが、そこは銭湯の隣の果物屋の奥座敷で、中風で寝ているお爺がきょとんとした顔であとを見送っていた。表へ出ると、丁度使いから帰って来た滅法背の高いそこの小僧に、何んぞ用だっかと問われ、いきなり風呂銭にもっていた一銭銅貨を投げ出し、ものも云わずに蜜柑を一つ掴んで逃げ出した。ところが、それは一個三銭の蜜柑で、その時のせわしない容子がおかしいと、ちょくちょく丸亀の料理場へ果物を届けに来るその小僧があとで板場(料理人のこと)や女中に笑いながら話し、それが叔父叔母の耳にはいった。お前、えらいぼろい事したいうやないか。叔母にその事をいわれると、順平はぺたりと畳に手をついて、もう二度と致しまへん。うなだれて眼に涙さえ泛べるのだった。ひやかす積りであった叔母はあっ気にとられ、そんな順平が血のつながるだけにいっそいじらしく、また不気味でもあったので、何してねんや、えらいかしこまって。そう云って、大袈裟に笑い声を立てた。叱られているのではなかったのかと、ほっとすると順平は媚びた笑いを黄色い顔に一杯うかべて、果物屋のお爺がぼんぼんは何処さんの子供衆や、学校何年やときいたなどとにわかに饒舌になった。が、果物屋のお爺というのは唖であり、間もなく息をひきとった。
尋常五年になった。誰に教えられるともなく始めた寝る前の「お休み」がすっかり身についていた。色が黒いさかいと茶断ちをしている叔母に面と向って色が白いとお世辞を云うことも覚えた。また、しょっちゅう料理場でうろうろしていて、叔父からあれ取れこれ取ってくれと一寸した用事を吩咐《いいつけ》られるのを待つという風であった。気をくばって家の容子を見ている内に、板場の腕を仕込んで、行末は美津子の聟にし身代も譲ってもよいという叔父の肚の中が読みとれていたからであろうか。
叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭で、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、土方、沖仲仕、飯屋の下廻り、板場、夜泣きうどん屋、関東煮の屋台などさまざまな商売を経て、今日、生国魂神社前に料理仕出し屋の一戸を構え、自分でも苦労人やと云いふらしているだけに、順平を仕込むのも、一人前の板場になるには先ず水を使うことから始めねばならぬと、寒中に氷の張ったバケツで皿洗いをさせ、また二度や三度指を切るのも承知の上で、大根をむかせて、けん[#「けん」に傍点](刺身のつま)の切り方を教えた。庖丁が狂って手を切ると、先ず、けんが赤うなってるぜといわれた。手の痛みはどないやとも訊いてくれないのを、十三の年では可哀相だと女子衆《おなごし》の囁きが耳にはいるままに、やはり養子は実の子と違うのかと改めて情けない気持になった。
叔父叔母はしかし、順平をわざわざ継子扱いにはしなかったのだ。そんな暇もないといった顔だった。奇体《けったい》な子供だと思っても、深く心に止めなかった。商売病[#ママ]、冠婚葬祭や町内の集合の料理などの註文が多かったから、近所の評判が大事だった。生国魂神社の夏祭には、良家のぼんぼん並みに御輿かつぎの揃いの法被もこしらえて呉れた。そんな時には、美津子の聟になれると
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