河豚料理一点張りだが、河豚《てつ》は知ってるのかと訊かれると、順平は、知りまへんとはどうしても口に出なかった。北田の手前もあった。板場の腕だけがたった一つの誇りだったのだ。そうか、知ってるか、そりゃ有難いと主人はいったが、しかし結局は、当分の間だけだがと追い廻しに使われ、かえってほっとした。
 一月ほど経ったある日、朝っぱらから四人づれの客が来て、河豚刺身とちり鍋を注文した。二人いる板場のうち、一人は四、五日前暇をとり、一人は前の晩カンバンになってからどこかへ遊びに行ってまだ帰って来ず、追い廻しの順平がひとり料理場を掃除しているところだった。主人に相談すると、お前出来るだろうといわれ、へえ出来まっせとこんどは自信のある声でいった。一月の間に板場のやり口をちゃんと見覚えていたから、訳もなかった。腕をみとめて貰える機会だと、庖丁さばきも鮮かで、酢も吟味した。
 夜、警察の者が来て、都亭の主人を拘引して行き、間もなく順平にも呼び出しが来た。ぶるぶる震えて行くと、案の定朝の客が河豚料理に中毒して、四人の内三人までは命だけくい止めたが、一人は死んだという。主人は、ひと先ず帰され、順平は留置された
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