下の話は順平の大人を眼覚ました。弁護士の試験をうけるために早稲田の講義録をとっているという木下は、道で年頃の女に会うときまって尻振りダンスをやった。順平も尻を振って見せ、げらげら笑い、そしてあたりを見廻すのだった。
ある時、気がついてみると、ふらふらと女中部屋の前にたたずんでいた。あくる日、千日前で「海女の実演」という見世物小屋にはいり、海女の白い足や晒を巻いた胸のふくらみをじっと見つめていた。そして又、ちがった日には「ろくろ首」の疲れたような女の顔にうっとりとなっていた。十六になっていた。二皮目だから今に女泣かせの良い男になると木下に無責任な賞め方をされて、もう女学生になっていた美津子の鏡台からレートクリームを盗み出し顔や手につけた。匂いに感づかれぬように、人の傍によらぬことにしていたが、知れて、美津子の嘲笑いを買ったと思った。二皮目だと己惚れて鏡を覗くと、兄の文吉に似ていた。眼が斜めに下っているところ、おでこで鼻の低いところ、顔幅が広くて顎のすぼんだところ、そっくりであった。ひとの顔を注意してみると、皆自分よりましな顔をしていた。硫黄の匂いのする美顔水をつけて化粧してみても追っ付かないと諦めて、やがて十九になった。数多くある負目の上に容貌のことで、いよいよ美津子に嫌われるという想いが強くなった。
ただ一途にこれのみと頼りにしている板場の腕が、この調子で行けば結構丸亀の料理場を支えて行けるほどになったのを、叔父叔母は喜び、当人もその気でひたすらへり下って身をいれて板場をやっている忠実めいた態度が、しかし美津子にはエスプリがないと思われて嫌に思っていたのだった。容貌は第二で、その頃学校の往きかえりに何となく物をいうようになった関西大学専門部の某生徒など、随分妙な顔をしていた。しかし、此の生徒はエスプリというような言葉を心得ていて、美津子は得るところ少くなかった。√3[#「3」は「√」の記号の中に入っている]《ルートサン》と封をした手紙をやりとりし、美津子の胸のふくらみが急に目立って来たと順平にも判った。うかうかと夜歩きを美津子はして、某生徒に胸を押えられ、ガタガタ醜悪に震えた。生国魂神社境内の夜の空気にカチカチと歯の音が冴えるのであった。やがて、思いが余って、捨てられたらいややしと美津子は乾燥した声でいい、捨てられた。
日がたち、妊娠していると両親にも判った。女学校の卒業式をもう済ませていることで、両親は赤新聞の種にならないで良かったと安堵した。ある夜更け美津子の寝室の前に佇んでいたといわれて、嫌疑は順平にかかった。順平はなぜか否定する気にもならなかったが、しかし、美津子を見る目が恨みを呑んだ。雨の夜、ふらふらと美津子の寝顔に近づいたが、やはり無暴だった。美津子の眼は白く冴えて、怖ろしく、順平の狂暴な血は一度にひいた。
丸亀夫婦は美津子から相手は順平でないと告げられると、あわてて、何か改って順平を長火鉢の前へ呼び寄せ、不束な娘やけど、貰ってくれといった。順平ははっと両手をついてありがとうございますと、かねてこの事あるを予期していた如き挨拶であった。見れば、畳の上にハラハラと涙をこぼし、眼をこすりもしないで芝居がかった容子であるから、丸亀夫婦も舞台に立ったような思いいれを暫時《ざんじ》した。一杯行こうと叔父が差し出す盃を順平はかしこまって戴き、呑み乾して返えす。それだけの動作の間にも、しーんとした空気が漲っていた。その空気が破れたかと思うと、順平は、阿呆の自分にもこれだけは云わしてほしい言葉、けれど美津子さんは御承諾のことでっかと、三十男のような問い方をした。尼になる気持で……などと云うたら口を縫いこむぞといいきかされていた美津子は、いけしゃあしゃあと、わてとあんたは元から許嫁やないのといった。二親はさすがに顔をしかめたが、順平はだらしなくニコニコして胸を張り、想いの適った嬉しさがありありと見えて、いやらしい程機嫌を誰彼にもとった。阿呆程強いもんはないと叔母はさすがに烱眼だった。
婚礼の日が急がれて、美津子の腹が目立たぬ内にと急がれたのだ。暦を調べると、良い日は皆目なかったので、迷った挙句、仏滅の十五日を月の中の日で仲が良いとてそれに決められた。婚礼の日、六貫村の文吉は朝早くから金造の家を出て、柿の枝を肩にかついで二里の道歩いて、岸和田から南海電車に乗った。難波の終点についたのは正午頃だったが、大阪の町ははじめてのこと故、小一里もない生国魂神社前の丸亀の料理場に姿を現わしたのは、もう黄昏どきであった。
その日の婚礼料理に使うにらみ鯛を焼いていた順平が振り向くと、文吉がエヘラエヘラ笑って突っ立っていた。十年振りの兄だが少しも変っていないので直ぐ分って、兄よ、わりゃ来てくれたんかと順平は団扇をもったまま傍へ寄った。白い料
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