りであった叔母はあっ気にとられ、そんな順平が血のつながるだけにいっそいじらしく、また不気味でもあったので、何してねんや、えらいかしこまって。そう云って、大袈裟に笑い声を立てた。叱られているのではなかったのかと、ほっとすると順平は媚びた笑いを黄色い顔に一杯うかべて、果物屋のお爺がぼんぼんは何処さんの子供衆や、学校何年やときいたなどとにわかに饒舌になった。が、果物屋のお爺というのは唖であり、間もなく息をひきとった。
 尋常五年になった。誰に教えられるともなく始めた寝る前の「お休み」がすっかり身についていた。色が黒いさかいと茶断ちをしている叔母に面と向って色が白いとお世辞を云うことも覚えた。また、しょっちゅう料理場でうろうろしていて、叔父からあれ取れこれ取ってくれと一寸した用事を吩咐《いいつけ》られるのを待つという風であった。気をくばって家の容子を見ている内に、板場の腕を仕込んで、行末は美津子の聟にし身代も譲ってもよいという叔父の肚の中が読みとれていたからであろうか。
 叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭で、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、土方、沖仲仕、飯屋の下廻り、板場、夜泣きうどん屋、関東煮の屋台などさまざまな商売を経て、今日、生国魂神社前に料理仕出し屋の一戸を構え、自分でも苦労人やと云いふらしているだけに、順平を仕込むのも、一人前の板場になるには先ず水を使うことから始めねばならぬと、寒中に氷の張ったバケツで皿洗いをさせ、また二度や三度指を切るのも承知の上で、大根をむかせて、けん[#「けん」に傍点](刺身のつま)の切り方を教えた。庖丁が狂って手を切ると、先ず、けんが赤うなってるぜといわれた。手の痛みはどないやとも訊いてくれないのを、十三の年では可哀相だと女子衆《おなごし》の囁きが耳にはいるままに、やはり養子は実の子と違うのかと改めて情けない気持になった。
 叔父叔母はしかし、順平をわざわざ継子扱いにはしなかったのだ。そんな暇もないといった顔だった。奇体《けったい》な子供だと思っても、深く心に止めなかった。商売病[#ママ]、冠婚葬祭や町内の集合の料理などの註文が多かったから、近所の評判が大事だった。生国魂神社の夏祭には、良家のぼんぼん並みに御輿かつぎの揃いの法被もこしらえて呉れた。そんな時には、美津子の聟になれるという希望に燃えて、美津子を見る眼が貪慾な光を放ち、ぼんぼんみたいに甘えてやろ、大根を切る時庖丁振り舞して立ち廻りの真似もしてみたろ、お菜の苦情云うてみたら、叔父叔母はどんな顔するやろと思うのだったが、順平は実行しかねた。その頃、もう人に感付かれた筈だが、矢張り誰にも知られたくない一つの秘密、脱腸がそれと分る位醜くたれ下っていることに片輪者のような負け目を感じ、これがあるために自分の一生は駄目だと何か諦めていた。想い出すたびにぎゃあーと腹の底から唸り声が出た。ぽかぽかぺんぺんうらうらうらと変なひとり言も呟いた。
 ある日、美津子が行水をした。白い身体がすうっと立ち上った。あっちイ行きイ。順平は身の置き場もないような恥しい気持になった。夜想い出すと、急にぽかぽかぺんぺんうらうらうら。念仏のように唱えた。美津子にはっきり嫌われたと蒼い顔で唱えた。近所のカフェから流行歌が聞えて来た。何がなし郷愁をそそられ、その文吉のことなども想い出し、泣いたろ、そう思うとするすると涙がこぼれてきて存分に泣けた。二度と見ない決心だったが、翌くる日、美津子が行水をしているとやはりそわそわした。そんな順平を仕込んだのは板場の木下であった。
 板場の木下は、東京で牛乳配達、新聞配達、料理屋の帳場などしながら苦学していたが、大震災に逢い、大阪へ逃げて来たと云った。汚い身装りで雇われて来た日、一緒に風呂へ行ったが、木下が小さい巾着を覗いて一枚一枚小銭を探し出すのを見て同情し、震災の時火の手を逃れて隅田川に飛び込んで泳いだ、袴をはいた女学生も並んで泳いでいたが、身につけているものが邪魔になって到頭溺死しちゃったという木下の話を聞くと、順平は訳もなく惹き付けられ、好きになった。大阪も随分揺れたことだろうなと、長い髪の毛にシャボンをつけながら木下が問うと、えらい揺れたぜと順平はいい、細ごま説明したが、その日揺れ出した途端、未だ学校から退けて来ない美津子のことに気がつくと、悲壮な表情を装いながら学校へ駆けつけ、地震怖かったやろ、そういって美津子の手を握ってたら、何んや、阿呆らしい、地震みたいなもん、ちっとも怖いことあーらへんわ、そして握られた手はそのままだったが。奇体《けったい》な順ちゃん、すけべいと云われて、随分情けなかったなどとは、さすがに云わなかった。
 女学生の袴が水の上にぽっかりひらいて……という木
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