母は云い、気晴しに紅葉を見るのだとて二人を連れて近くの牛滝山へ行った。滝の前の茶店で大福餅をたべさせながらおみよ叔母は、叔母さんの香典はどこの誰よりも一番|沢山《ぎょうさん》やさかいお前達は肩身が広いと聴かせ、そしてぽんと胸をたたいて襟を突きあげた。
 十歳の順平はおみよ叔母に連れられて大阪へ行った。村から岸和田の駅まで二里の途は途中に池があった。大きな池なので吃驚した。順平は国定教科書の「作太郎は父に連れられて峠を……」という文句を何となく想出したが、後の文句がどうしても頭に泛んで来なかった。見送るといって随いて来た文吉は、順平よ、わりゃ叔母さんの荷物もたんかいやとたしなめた。順平は信玄袋を担いでいたが、左の肩が空いていたのだ。文吉の両肩には荷物があった。叔母はしかし、蜜柑の小さな籠をもっているだけで、それは金造が土産にくれたもの、何倍にもなってかえる見込がついていた。
 岸和田の駅から引返す文吉が、直きに日が暮れて一人歩きは怖いこっちゃろと、叔母は同情して五十銭呉れると、文吉は、金はいらぬ、金造叔父がわしの貯金帳こしらえてくれると云って受取らず、帰って行った。そんなことがあるものか、文吉は金造に欺されている、今に思い知る時があるやろと、電車が動き出して叔母は順平に云った。はじめて乗る電車にまごついて、きょろきょろしている順平は、碌々耳にはいらなかった。電車が難波に着くと、心に一寸した張りがついた。大阪へ行ったらしっかりせんと田舎者やと笑われるぞと、兄らしくいましめてくれた文吉の言葉を想出したのだ。
 叔母の家についた。眩い電灯の光でさまざまな人に引き合わされたが、耳の奥がじーんと鳴り、人の顔がすッーと遠ざかって小さくなったり、急にでっかく見えたり、さすがに呆然としていた。しッかりしよと下腹に力をいれると差し込んで来て、我慢するのが大変だった。香典返えしや土産物を整理していた叔母が、順ちゃんよ、お前の学校行きの道具はときくと、すかさず、ここにあら。信玄袋から取出してみせ、はじめて些か得意であった。然るに「ここにあら」がおかしいと嗤《わら》われて、それは叔母の娘で、尋常一年生だから自分より一つ年下の美津子さんだとあとで知った。美津子は虱を湧かしていてポリポリ頭をかいていたが、その手が吃驚するほど白かった。
 遅い夕飯が出された。刺身などが出されたから、まごついて下を
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