のであろうか。順平さえ娘の腹に宿らなんだら、まからんやが雨さえ降らせなんだらと思い、一途に年のせいではなかった。云うまじきことを云い聴かせるという残酷めいた喜びに打負けるのが度重って、次第に効果はあった。継子だとはどんな味か知らぬが、順平は七つの頃から何となく情けない気持が身にしみた。お婆の素振りが変になり、みるみるしなびて、死んで、順平は父の所に戻された。
ひがんでいるという言葉がやがて順平の身辺をとりまいた。一つ違いの義弟《おとうと》と二つ違いの義姉《あね》がいて、その義姉が器量よしだと子供心にも判った。義姉は母の躾がよかったのか、村の小学校で、文吉や順平の成績が芳しくないのは可哀相だと面と向って云うのだ。兄の文吉はもう十一であるから何とか云いかえしてくれるべきだのに、いつもげらげら笑っていた。眼尻というより眼全体が斜めに下っていて、笑えば愛敬よく、また泣き笑いにも見られた。背が順平よりも低く、顔色も悪かった。頼りない男であったが、順平には頼るべきたった一人の兄だったから、学校がひけると、文吉の後に随いて金造の家へ行くことにした。
金造は蜜柑山をもち、慾張りと云われた。男の子がなく、義理で養子にいれたが、岸和田の工場で働かせている娘が子供をもうけ、それが男の子であったから、いきなり気が変り、文吉はこき使われた。牛小屋の掃除をした。蜜柑をむしった。肥料を汲んだ。薪を割った。子守をした。その他いろいろ働いた。順平は文吉の手だすけをした。兄よ、わりゃ教場で糞したとな。弟よ、わりゃ寝小便止めとけよ。そんなことを云いかわして喜んでいた。
康太郎の眼はまだ黒かったが、しかしこの父はもう普通の人ではなかった。悪性の病をわずらって悪臭を放ち、それを消すために安香水の匂いをプンプンさせていたが、そんな頭の働かせ方がむしろ不思議だとされていた。寝ていると、壁に活動写真がうつるようであった。ある日、浪花節語りが店の前に来て語っているから見て来いといい、順平が行こうとすると、継母は呶鳴りつけて、われも狂人か、そう云って継母はにがにがし気であった。その日から衰弱はげしく、大阪生玉前町の料理仕出し屋丸亀に嫁いでいる妹のおみよがかけつけると、一瞬正気になり、間もなく康太郎は息をひきとった。
焼香順のことでおみよ叔母は継母のおそでと口喧嘩した。それでは何ぼ何でも文吉や順平が可哀相やと叔
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