文学的饒舌
織田作之助
最近「世界文学」からたのまれて、ジュリアン・ソレル論を三十枚書いたが、いくら書いても結論が出て来ない。スタンダールはジュリアンという人物を、明確に割り切っているのだが、しかし、ジュリアンというのはどんな人物かと問えば「赤と黒」一巻を示すよりほかにスタンダールにも手はないだろう。ジュリアンを説明するのに「赤と黒」の何百頁かが必要だったわけだ。だから、三十枚の評論で結論が出る筈がない。結局、「赤と黒」を読み直すことがその都度の結論だが、僕は「ジュリアン・ソレル」という小説を書こうと思う。これは長いものになるが、今年中か来年のはじめには着手するつもりだ。僕の小説に思想がないとか、真実がないとか言っている連中も、これを読めば、僕が少くとも彼等よりもギリギリの人生を考えて来た男であることは判るはずだ。
人間的にいわゆる大人になることは作家として果して必要だろうか。作家の中には無垢の子供と悪魔だけが棲んでおればいい。作家がへんに大人になれば、文学精神は彼をはなれてしまう。ことに海千山千の大人はいけない。舟橋聖一氏にはわるいが、この人の「左まんじ」という文芸春秋の小説は主人公の海千山千的な生き方が感じられてがっかりした。丹羽文雄氏にもいくらか海千山千があるが、しかし丹羽氏の方が純情なだけに感じがいい。僕は昔から太宰治と坂口安吾氏に期待しているが、太宰氏がそろそろ大人になりかけているのを、大いにおそれる。坂口氏が「白痴」を書かない前から、僕は会う人ごとに、新人として期待できるのはこの人だけだと言って来たが、僕がもし雑誌を編輯するとすれば、まず、太宰、坂口の両氏と僕と三人の鼎談を計画したい。大井広介氏を加えるのもいい。
文学雑誌もいろいろ出て「人間」など実にいい名だが、「デカダンス」というような名の雑誌が出てもいいと思う。
文学は文学者にとって運命でなければならぬ――と北原武夫氏が言っているのは、いい言葉で、北原氏はエッセイを書くと読ませるものを書くが、しかし、「天使」という北原氏の小説は終りまで読めなかった。「天使」には文学が運命になっている作家北原氏を感じさせないからだ。北原氏自身は、文学は自己の運命だと信じているのだろうか。信じているとすれば、それを感じさせない「天使」の弱さは、どこから来るのだろうか。北原氏が荷風以下多くの作家を時評で退ける時の強さを、いつ作品の上で示すのだろうか。たしかに、文学は文学者にとって唯一の人生であり、運命だ。たとえば、北原氏にとって運命であるように、荷風にとっても運命であろう。荷風の思想は低いかも知れぬが、北原氏の作品の方が思想的に高いとは思えぬ。そして荷風の方がすくなくとも運命的だ。荷風よりもドストエフスキイの方が高く深く、運命的だ。判り切ったことだ。そして、判り切ったことを楯にものを言えば、颯爽としているというのが、作家であり同時に評論家であることのむつかしさになるのだと、僕は思う。だから、僕もひとのことを言うのはよそう。
僕は読売新聞に連載をはじめてから秋声の「縮図」を読んだ。「縮図」は都新聞(今の東京新聞)にのった新聞小説だが、このようなケレンのない新聞小説を読むと、僕は自分の新聞小説が情けなくなって来る。「縮図」は「あらくれ」ほどの迫力はないが、吉田栄三の芸を想わせる渋い筆致と、自然主義特有の「あるがまま」の人生観照が秋声ごのみの人生を何の誇張もなく「縮図」している見事さは、市井事もの作家の武田麟太郎氏が私淑したのも無理はないと思われるくらいで、僕もまたこのような文学にふとしたノスタルジアを感ずるのだ。すくなくとも秋声の叫ばぬスタイル、誇張のない態度は、僕ら若い世代にとってかなわぬものの一つだ。しかし、文学の態度は、自然主義だけではない。文学というものは、結局誇張だと思うところから、ジタバタ書いて行くのが、若い世代の文学であろう。誇張ぎらいのスタンダールの「赤と黒」もスタンダールの自己主張と思えば、やはり一つの誇張だ。読売の僕の小説に、もし今までの作品とちがうものがあるとすれば、文学は誇張だとはっきり自覚した僕の若さが作品を燃えさせている点であると、うぬぼれている。この僕の考え方はまちがっているかも知れない。しかし「縮図」に対決するには、もうこの一手しかない。僕はこんどの読売では、今まで一時間足らずで書けた一回分にまる一晩費している。題を決めるのに一日、構想を考えるのに一日、たのまれてから書き出すまでに二日しか費さなかったぐらいだから、安易な態度ではじめたのだが、八九回書き出してから、文化部長から、通俗小説に持って行こうとする調子が見えるのはいかん、調子を下すなと言われたので、決然として、この作品に全精力を打ちこむ覚悟をきめた。危いところだった。文化部長の
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