注意がなければ僕は通俗小説を書いてしまったかも知れない。覚悟をきめてからは、毎晩徹夜でこの小説に掛りきりで、ヒロポンを注射する度数が今までの倍にふえた。何をそんなに苦労するかというと、僕は今まで簡潔に書く工夫ばかししていたので一回三枚という分量には困らぬはずだったのに、どうしても一回四枚ほしい。十行を一行に縮める今までの工夫が、こんどは一行を十行に書く努力に変って来たのだ。僕は今までの十行を一行に書くという工夫からうまれたスタイルの前に、書かねばならぬことも捨てて来た。これからは、今まで捨てたものを拾って行こうと思うのだ。しかも、一回三枚だ。三枚にきっちり入れるために、何度も書き直す。実に大変な苦労だ。この苦労が新聞が終るまで、いや、小説を書いている限り、毎晩つづくのだと思うと、悲壮な気持にさえなるが、しかし、これほど苦労しても、結局どれほどの作品が出来るのかと考える方が、はるかに悲しい。作家はみな苦労し、努力し、工夫し、真剣に書いているのだが、ふと東西古今の大傑作のことを考えると、苦労も努力も工夫もみな空しいもののような気がしてならない。しかし、それでも書きつづけて行けば、いつかは神に通ずる文学が書けるのだろうか、今は、せめて毀誉褒貶を無視して自分にしか書けぬささやかな発見を書いて行くことで、命をすりへらして行けばいいと思っている。もっとくだらぬ仕事で命をすりへらす人もあるのだから。
古今の大傑作を考えると、自作を語る気にもなれないが、もう一つ言うと、僕はちかごろ何を書いても、完結しないのだ。「世相」という小説は九十何枚かで一応結んだが、あの小説はあれから何拾枚もかきつづけられる作品だった。ダイスのマダムの妹を書こうというところで終ったが、あれは「世相」の中でさまざまな人間のいやらしさを書いて来た作者が、あの妹を見てはじめて清純なものに触れたという一種の自嘲だ。が、こんな自嘲はそもそも甘すぎて、小説の結びにはならない。「世相」は書きつづけるつもりだ。「競馬」もあれで完結していない。あのあと現代までの構想があったが、それを書いて行っても、おそらく完結しないだろう。僕は今まで落ちを考えてから筆を取ったが、今は落ちのつけられない小説ばかし書いている。因みに「世相」という作品は、全部架空の話だが、これを読者に実在と想わせるのが成功だろうか、架空と想わせるのが成功だろうか、むつかしい問題だ。
これからの文学は、五十代、四十代、三十代、二十代……とはっきりわけられる特徴をそれぞれ持つようになるだろう。目下のところ五十代はかわらず、四十代は迷い、三十代は無気力、二十代はブランク。四十代はやがて迷いの中から決然として来るだろうし、二十代はブランクの中から逞しい虚無よりの創造をやるだろうか、三十代はどうであろうか。三十代(僕もそうだが)は自分の胸に窓をあける必要がある。窓の中はガラン洞であってもいい。そのガラン洞を書けばいい。三十代は今まで自分に窓をあけるのを、警戒しすぎていた。これは三十代の狡さだ。尻尾を見せることを、おそれてはならない。
新人が登場した時は、万人は直ちに彼を酷評してはならない。むしろ多少の欠点(旧人から見れば新人はみな欠点を持っている)には眼をつむって、大いにほめてやることが、彼を自信づけ、彼が永年胸にためていたものを、遠慮なく吐き出させることになるのだ。起ち上りぎわに、つづけざまに打たれて、そのまま自信を喪失した新人も多い。新人を攻撃しつづけると、彼は自己の特徴である個性的表現を薄めようとする。だから、まず彼をほめ、おだてて、思う存分個性的表現を発揮させるがよい。けなすのは、そのあとからでもよい。由来、この国の人は才能を育てようとしない。異色あるものに難癖をつけたがる。異分子を攻撃する。実に情けない限りだ。もっとも甘やかされるよりも、たたかれる方が、たたかれた新人自身を強くすることもある。僕は処女作以来今日まで、つねにたたかれて来た。つねに一言の悪罵を以て片づけられて来た。僕の作品はバイキンのようにきらわれた。僕は僕の作品の一切の特徴を捨ててしまおうと思った。僕がけなされている時、同時にほめられている作家のような作品を書いてやろうとさえ思った。そのような作品を書くことは、僕には容易であった。しかし、また僕は思った。あんな作品がほめられているような文壇や、あんな作品に感心しているような人から、けなされて、参るのは情けないと。僕はたたかれても、けなされても、平気で書きつづけた。そして今日もなおその状態が変らない。僕は相変らずたたかれて、相変らず何くそと思って書いている。闘志で書いているようなものだ。東京の批評家は僕の作品をけなすか、黙殺することを申し合わしているようだ――と思うのは、僕のひがみだろうが、しかし、僕
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