織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悍《かん》婦に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)トガキ[#「トガキ」に傍点]によれば
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      一

 マルセル・パニョルの「マリウス」という芝居に、ピコアゾーという妙な名前の乞食が出て来るが、この人物はトガキ[#「トガキ」に傍点]によれば「この男年がない」ということになっている。若いのか年寄りなのかわからぬからである。
「してみれば、私もまた一人のピコアゾーではあるまいか。最近の私は自分の名前の上に「この男年がない」という形容詞句を冠せてもよいような気がするのである。年があるということは、つまりそれ相当の若さや青春があるという意味であろう。が現在の私はもはや耳かきですくう程の若さも青春も持ち合せていないことを心細く感ずるばかりである。いや現在といわず二十代の時ですら、私は若さを失っていたようである。私が二十代の時に書いた幾つかの駄小説は、すべて若さがないと言われていた。だから、世間で私のことを白髪のある老人だと思い込んでいる人があったにしても、敢て無理からぬことであった。が私の本当の年齢は今年三十三歳になった許りである。
 もっとも私はこの三十三歳を以て、未だ若しとするものではない。青春といい若さといい、結局三十歳までではあるまいか。ウェルテルもジュリアンソレルもハムレットも、すべて皆二十代であった。八百屋お七の恋人は十七歳であったと聴く。三十面をさげてはあのような美しい狂気じみた恋は出来まいと思われるのである。よしんば恋はしても、薄汚なくなんだか気味が悪いようである。私の知人に今年四十二歳の銀行員がいるが、この人は近頃私に向って「僕は今恋をしているのです」と語って、大いに私を辟易させた。相手の女性はまだ十九歳だということである。私は爬虫類が背中を這い廻るような気がした。恋は二十代に限ると思う。
 もっとも中年の恋がいかに薄汚なく気味悪かろうとも、当事者自身はそれ相応の青春を感じているのかも知れない。しかし私は美しい恋も薄汚ない恋もしてみようという気には到底なれない。情事に浮身をやつすには心身共に老いを感じすぎているのである。私は若く美しい異性を前にして、あたかも存在せぬごとく、かすんでいることが多い。もっとも私とても三十三歳のひとり者であるから、若く美しい異性と肩を並べて夜の道を歩くという偶然の機会に、恵まれないわけでもない。しかし、そのような時にも私の口は甘い言葉を囁かず、熱い口づけもせず、ただ欠伸をするためにのみ存在しているのであった。私は彼女に何の魅力も感じないどころか、万一まかり間違ってこの女と情事めいた関係に陥ったら、今は初々しくはにかんでいるこの女もたちまち悍《かん》婦に変じて私の自由を奪うだろうという殺風景な観察すら下していた。「恋の奴」「恋の虜」などという語があるが、奴や虜になるくらいなら、まだしも不能者になった方がましだとすら思った。が私がそう思うのと同時に、彼女の方でも私という人間がいかに情熱のない男であるかということを悟ったらしい。二人の意見は完全に一致して、私たちは時間の空費をまぬがれることが出来たのである。
 青春も若さも大急ぎで私から去ってしまったらしい、といって、私は非常に悲観しているわけではない。今年の春、私は若い将校が長い剣を釣って、若い女性と肩を並べながら、ひどく気取った歩き方で大阪の焼跡を歩いているのを目撃した時、若さというものはいやらしいもんだと思った。何故男は若い女性と歩く時、あんなに澄ましこんだ顔をしなければならぬのだろうか。しかし、私とてももし若い異性を連れて歩く時は、やはり間抜けた顔をするかも知れない。そう思えば、老衰何ぞ怖るるに足らんや。しかし、顔のことに触れたついでに言えば、若いのか年寄りなのかわからぬような顔は、上乗の顔ではあるまい。それを思うと、私は鏡を見るたびに、やはり失望せずにはおられない。鏡の中の私の顔はまさにピコアゾーである。自分でも自分が何歳であるか疑わしくなって来るくらい、私の顔は老けている。が、僅かに私の容貌の中で、これだけは年相応だと思われるのは、房々とした黒い長髪である。私の頭には一本の白髪もなく、また禿げ上った形跡もない。人一倍髪の毛が長く、そして黒い。いわばこの長髪だけが無疵で残って来たという感じである。おまけにこの長髪には、ささやかながら私の青春の想い出が秘められているようである。男にも髪の歴史というものがないわけではない。

      二

 私は高等学校にはいった途端に、髪の毛を伸ばした。何故伸ばしたか。理由は簡単である。私の顔は頬骨がいやに高い。それ故丸坊主になると、私の頭は丁度耳の附根あたりで急に細くなり、随分見っともないのである。見っともないだけならまだしもだが、何だか破戒僧のような面相になってしまうのである。この弱点を救うには、髪の毛を耳のあたりまで房々と垂れるより仕方がない。そう思案した私は、実をいえば中学生の頃から髪の毛を伸ばしたかったのである。
 しかし中学生の分際で髪の毛を伸ばすのは、口髭を生やすよりも困難であった。それ故私は高等学校にはいってから伸ばそうという計画を樹て、学校もなるべく頭髪の型に関する自由を許してくれそうな学校を選んだ。倖い私のはいった学校は自由を校風としていた。授業のはじめと終りに鳴る鐘は自由の鐘とよばれていて、その学校のシンボルであった。寄宿舎も自由寮という名がついていた。
 私はその名に憧れて自由寮の寮生になった。ところが自由寮には自治委員会という機関があって、委員には上級生がなっていたが、しかしこの委員は寮生間の互選ではなく、学校当局から指命されており、噂によれば寮生の思想傾向や行動を監視して、いかがわしい寮生を見つけると、学校当局へ報告するいわばスパイの役をしているということであった。そのために手当を貰っているという説を成すものもあった。私は手当云々は信じられなかったが、しかし自治委員の前では自分の思う所を述べられないと思った。が、たった一つ彼等の眼をくらますことの出来ないものがあった。それは私の髪の毛である。ある日それは丁度私の髪の毛がはじめて左右に分けられた日のことであったが、あの自治委員は私を呼んで、頭を丸刈りにすべしと命令した。私はことの意外に驚いて、この学校は自由をモットーとしているのに、生徒の頭の型まで束縛して、一定の型にはめてしまおうとするのであるかと、早口で言った。すると自治委員の言うのには、寮では寮生のすべては丸刈りたるべしという規則がある。郷に入れば郷に従えという諺を君は知らぬのか。では、郷を去るまでだ、俺は俺の頭を守ると、私は気障な言い方をして、寮を去り下宿住いをした。丁度満州事変が起った直後のことであった。
 寮生はすべて丸刈りたるべしという規則は、私にとっては奇怪な規則であった。私は何故こんな規則が出来たのだろうかと、暫く思案したが、よく判らなかった。そこで私は、もしかしたらこれは、長髪の生徒の中には社会主義の思想を抱いている者が多いから、丸刈りを強制したのかも知れないという珍妙な想像をして、ひそかに吹きだした。しかし、私は髪こそ長かったが、社会主義の思想を抱く生徒ではなかった。
 私はその思想を頭から軽蔑しているわけではなかったが、その思想を抱いている生徒は軽蔑していた。私のクラスにも自らそういう思想を抱いていると称する生徒がいたが、私はその生徒の容貌にも生活にも敬意を払うことは不可能だと思った。彼はラスプーチンのような顔をして、爪の垢を一杯ためながら下宿の主婦である中年女と彼自身の理論から出たらしいある種の情事関係を作ったり、怪しげな喫茶店の女給から小銭をまきあげたり、友達にたかったりするばかりか、授業料値下げすべしというビラをまくことを以て、主義に忠実な所以だとしている阿呆であった。
 この阿呆をはじめとして、私の周囲には佃煮にするくらい阿呆が多かった。就中、法科志望の点取虫の多いのには、げっそりさせられた。彼等は教師の洒落や冗談までノートに取り、しかもその洒落や冗談を記憶して置く必要があるかどうか、即ちそれが試験に出るかどうかと質問したりした。彼等の関心は試験に良い点を取ることであり、東京帝国大学の法科を良い成績で出ることであり、昭和何年組の秀才として有力者の女婿になることであった。そのため彼等はやがて高等文官試験に合格した日、下宿の娘の誘惑に陥らないような克己心を養うことに、不断の努力をはらっていた。もっとも手ぐらいは握っても、それ以上の振舞いに出なければ構わぬだろうという現金な考えを持っていたかも知れない。
 何れにしても、彼等は尻尾を出さなければ必ず出世できるという幸運を約束されているという点で、一致していた。後年私は、新聞紙上で、軍人や官吏が栄転するたびに、大正何年組または昭和何年組の秀才で、その組のトップを切って栄進したという紹介記事を読んで、かつての同級生の愚鈍な顔を思い出さぬ例《ため》しは一度もないくらいである。彼等が今日本の政治の末端に与っていると思えば、冷汗が出るのである。
 しかし、私は何も自分が彼等にくらべて利巧であると思っているわけではない。周囲に阿呆が大勢いてくれたおかげで、当時の私はいくらか自分が利巧であるように思い込んでいたことは事実だが、しかし果して私は利巧であったかどうか。
 私は生れつき特権というものを毛嫌いしていたので、私の学校が天下の秀才の集るところだという理由で、生徒たちは土地で一番もてる人種であり、それ故生徒たちは銭湯へ行くのにも制服制帽を着用しているのを滑稽だと思ったので、制服制帽は質に入れて、和服無帽で長髪を風に靡かせながら通学した。つまり私は十分風変りであったが、それ以上に利巧でなかったわけである。
 このような私を人は何と思っていたろうか。ある者は私をデカダンだと言い、ある者は大本教を信じているらしいと言った。しかし私は何ものをも信じていなかった。ただ一つ私は東京帝国大学の文科というものを信じていた。そこでの講義は高遠であり、私のような学識のない者は到底その講義を理解することが出来ぬだろうと真面目に信じていたのである。それ故私は卒業の日が近づいて来ると、にわかに不安になり、大学へはいるのはもう一年延ばした方がいいのではなかろうか、もう一年現級に止まってみっちり勉強してからにした方が賢明ではなかろうかと思ったので、ある日教師を訪問して意見をきくと、教師の答は意外だった。君のその希望は君の意志をまつまでもなくかなえられるだろう。何故なら学校では君の卒業は許さぬことに決定している。理由は三つある。一つ欠席日数超過、二つ教師の反感を買っていること、三つ心身共に堕落していること、例えば髪の毛が長すぎる云々。
 私は希望通り現級に止まったが、私より一足さきに卒業した友人がノートを残して行ってくれたので、私は毎年同じ講義のノートをもう一つ作るために教室へ出掛けることは時間の空費だと思った。この考えは極めて合理的な考えであったが、同時にこれ以上不合理な考えはなかった。
 私の欠席日数はまたたく間に超過して、私は再び現級に止まることになった。私の髪も長かったが、高等学校生活も長かったわけである。私は後者の長さに飽き果てて、遂に学校に見切りをつけてしまった。事変がはじまる半年前のことであった。

      三

 学校をやめたので、私は間もなく徴兵検査を受けねばならなかった。
 私は洋服を持たなかったので、和服のまま検査場へ行った。髪の毛は依然として長く垂れたままであったことは勿論である。丸刈りにしていった方がよかろうと忠告してくれる人もあったが、私は少々叱られても丸刈りにはなりたくなかったのである。ところが検査場では誰も私の頭髪を咎める者はなかった。ただ身長を計る時、髪の毛が邪魔になるので検査官が顔をしかめただけであった。
 身体検査が済んで最後に徴兵官の前へ行くと、徴兵官は私が学校をやめた
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