理由をきいた。病気したからだと私は答えたが、満更嘘を言ったわけではない。私は学校にいた時呼吸器を悪くして三月許り休学していたことがある。徴兵官は私の返答をきくとそりゃ惜しいことをしたなと言い、そしてジロリと私の頭髪を見て、この頃そういう髪の型が流行しているらしいが、流行を追うのは知識人らしくないと言った。私はいやこんな頭など少しも流行していませんよ、むしろ流行おくれだと思いますと答えた。徴兵官はそれきり黙ってしまったが、やがて下を向いたまま、丙種と呟いた。はッ、帰っても構いませんか。帰ってよろしい。検査場を出ると、私は半日振りの煙草を吸いながら、案外物分りのいい徴兵官だなと思った。
その後私は何人かの軍人に会うたが、この徴兵官のような物分りのいい軍人には一人も出会わなかった。むしろ私の会うた軍人は一人の例外もないと言っていいくらい物分りが悪く、時としてその物分りの悪さは私を憤死せしめる程であった。
もっともこれは時代のせいかも知れなかった。私が徴兵検査を受けた時は、まだ事変が起っていなかったのである。
学校をよしていつまでもぶらぶらしているのもいかがなものだったから、私は就職しようと思った。しかし、私の髪の毛を見ては、誰も雇おうとはしなかった。世をあげて失業時代だったせいもあったろう。もっとも保険の勧誘員にならいくらか成り易かった。しかし私はそれすら成れなかった。私のような髪の毛の者が勧誘に行っても、誰も会おうとしないだろうと思ったのか、保険会社すら私を敬遠した。が、私は丸刈りになってまで就職しようとは思わなかった。
このような状態が続けば、私はいたずらに長い髪の毛を抱いて餓死するところであった。が、天は私の長髪をあわれんだのか、やがて私を作家の仲間に入れてくれた。私の原稿は売れる時もあり売れぬ時もあったが、しかしそれは私の長髪とは関係がなかった。私の髪の毛が長いという理由で、私の原稿を毛嫌いするような編輯者は一人もいなかった。むしろ編輯者の中には私より髪の毛を長くしている頼もしい仁もあった。今や誰に遠慮もなく髪の毛を伸ばせる時が来たわけだと、私はこの自由を天に感謝した。
ところが、間もなく変なことになった。既に事変下で、新体制運動が行われていたある日の新聞を見ると、政府は国民の頭髪の型を新体制型と称する何種類かの型に限定しようとしているらしく、全国の理髪店はそれらの型に該当しない頭髪の客を断ることを申し合わせたというのである。
私はことの意外に呆れてしまったが、果して間もなくあるビルディングの地下室にある理髪店へ行くと、金縁眼鏡をかけたそこの主人はあなたのような髪は時局柄不都合であると言って、あれよあれよと驚いている間に、私の頭を甲型か乙型か翼賛型か知らぬがとにかく呉服屋の番頭のような頭に刈り上げてしまった。私は憤慨して、何が時局的に不都合であるか、むしろ人間の頭を一定の型に限定してしまおうとする精神こそ不都合ではないか、しかし言っておくが、髪の型は変えることが出来ても、頭の型まで変えられぬぞと言ってやろうと思ったが、ふと鏡にうつった呉服屋の番頭のような自分の頭を見ると、何故か意気地がなくなってしまって、はあさよかと不景気な声で呟くよりほかに言葉も出なかった。
事変が戦争に変ると、私の髪は急激に流行はずれになってしまった。町にも村にも丸刈りが氾濫して、猫も杓子も丸坊主、丸坊主でなければ人にあらずという風景が描き出された。
このような時に依然として長髪を守って行くことは相当の覚悟を要した。が、私は義憤の髪の毛をかきむしるためにも、長髪でおらねばならないと思った。言いたいことが言えぬ世の中だから、髪の毛をかきむしるより外に手がなかったのである。「物言わねば腹ふくれる」どころではなかった。星と錨と闇と顔が「物言わねば腹のへる」世の中であった。だから文学精神にも闇取引が行われ、心にもない作品が文学を僣称した。そして人々が漸くこのことの非を悟った時には、もう戦争は終りかけていた。
しかし私は少し理屈を言いすぎた。おまけに先廻りすぎた。話を戻そう。――私はとにかく長髪を守っていたのであるが、やがて第二国民兵の私にも点呼令状が来た。そして点呼の日が近づくにつれて、私を戦慄させるようなさまざまな噂が耳にはいった。ことに点呼当日長髪のまま点呼場へ出頭した者は、バリカンで頭の半分だけ刈り取られて、おまけに異様な姿になった頭のままグランドを二十周走らされ、それが終ると竹刀で血が出るくらいたたかれるらしいという噂は、私を呆然とさせた。東京にいる友人からの手紙によると、東京では長髪のまま点呼場へ出頭してもカスリ傷一つ負わなかったということである。私はこの時くらい東京を羨ましく思ったことはなかった。
点呼の前夜、私は遂に長髪に別れを告げて丸刈りになった。そしてその夜私は大阪市内の親戚の家に泊った。私は点呼の訓練は寄留地の分会で受けたが、点呼は本籍地で受けねばならなかった。
点呼令状によれば点呼を受ける者は午前七時に点呼場へ出頭すべしとあったが、点呼場は市内にあり、朝の一番電車に乗っても午前七時に到着することはむつかしかったので、市内の親戚の家に泊ったのである。そしてその朝私は午前五時に起きて支度をし、タクシーでかけつけたので、点呼場へ着いたのは、午前七時にまだ三十分間があった。ところが驚いたことには、参会者はすでに整列をすましていて、何のことはない私は遅刻して来た者のようであった。それで私はおそるおそる分会長の前へ出頭すると、分会長はいきなり私の顔を撲って、莫迦野郎、今頃来る奴があるかと奴鳴った。
私は点呼令状と腕時計をかわるがわる見せて、令状には午前七時に出頭すべしとあるが、今はまだ七時前であるという意味のことを述べると、分会長は文句を言うなと奴鳴って、再び拳骨で私の鼻を撲った。あッと思って鼻を押えると、血が吹き出していた。あとで知ったことだが、この在郷軍人会の分会長は伍長上りの大工で、よその分会から点呼を受けに来た者には必ず難癖をつけて撲り飛ばすということであった。なお、この男を分会長にいただいている気の毒な分会員達は二週間の訓練の間、毎日の如く愚劣な、そしてその埋め合せといわんばかりに長ったらしい殺人的演説を聴かされて、一斉に食欲がなくなったそうである。この話を聴いた時、私は鼻血は出たけれど大工の演説を聴かずに済んだ自分を倖せに思った。私は自分の精神の衛生上、演説呆けという病気をかねがね怖れていたのである。
鼻血が出たので、私は鼻の穴に紙片をつめたまま点呼を受けた。査閲の時点呼執行官は私の顔をジロリと見ただけで通り過ぎたが、随行員の中のどうやら中尉らしい副官は私の鼻を問題にした。
傍にいた分会長はこ奴は遅刻したので撲ってやりましたと言った。私はいや遅刻したのではない、点呼令状の指定する時間前に到着したのである旨をありていに述べた。その途端、副官の肩が動いた。愚かな私はてっきり分会長が撲られるだろうと思った。が、撲られたのは私の方であった。私は五つまで数えたが、あとはいくつ撲られたのか勘定も出来ぬくらいの意識状態になってしまった。そんな意識状態になったので、その時私の頭に一寸気障な考えが泛んだ。それは、君たちは今俺を撲っていい気になっているだろうが、しかし俺は少なくとも君たちよりは一寸有名な男なんだぞという、鼻持ちならぬ考えであった。
点呼がすむと、私はあわてて髪を伸ばしに掛った。やがて私の髪の毛が元通りになったある日、私は町で分会長の姿を見受けた。彼は現役ではないのに、相変らず軍服を着用して、威張りかえっていた。私は何となく高等学校を想い出した。銭湯へ行くのにも制服制帽を着用していた生徒たち。分会長は私を見ると、いやな顔をした。その後私は彼の姿を見なかったが、先日、それは戦争がすんでからまだ四五日たっていない日のことであった。私は市電に乗っている彼の姿を見た。彼は国民服を着て、何か不安な面持ちで週刊雑誌を読んでいた。そしてふと顔を上げて、私を見ると、あわてて視線を外らした。
私の髪の歴史も以上で終りである。私の長髪にはささやかな青春の想い出が秘められていると書いたが、思えば青春などどこにもなかった。ただにがにがしい想い出ばかりである。近頃人々はあわてて髪を伸ばしかけている。それを見るとますますにがにがしい。一番さきに丸坊主になった者が一番さきに髪を伸ばすだろうと思うと、にがにがしさは増すばかりである。しかし、こんなことを言ってみても仕方がない。
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日発行
1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「オール読物 十一月号」
1945(昭和20)年11月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月13日作成
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