男は起ち上って、ドアを閉めようとした。が、章三はドアのハンドルをつかんではなさなかった。
「こいつ!」
 男は章三の胸を突いた。胸に溜っていた自尊心の膿ははけ口を求めて、あふれ出た。章三はものもいわず、精一杯の力をこめて、どんと男の胸を突いた。男はあっという間に、デッキの外へ落ちてしまった。
「あっ!」
 章三は本能的にドアを閉めた。途端に、雨に濡れたドアの窓に若い女の顔がうつった。章三はギョッとして振り向いた。

      八

 章三はその男を殺すつもりで、デッキから突き落したのではなかった。
 はじめにその男が章三の胸を突いたのだ。章三はただ突きかえしただけに過ぎない。もし、その男と章三が位置を変えていたとすれば、章三の方がデッキの外へ落ちたかも知れないのだ。
 殺意はなかったのだ。しかし、ドアがあいていることは知っていた。突けば落ちるだろうということも無意識のうちに感じていた。土砂降りの雨の中へ、その男が土人形のように落ちて行く姿も、その男の胸を突きかえす一瞬前に、章三の頭に閃いていた。だから、よしんばその男が必ず死ぬと判っていても、章三はやはりその男を突いただろう――という
前へ 次へ
全221ページ中190ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング