荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。
 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。
 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。
「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」
 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」
 咄嗟に意味は判らなかった。
「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」
「歩いているんです」
 むっとして答えると、巡査もむっとして、
「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」
「家へ帰るんです」
「家はどこだ……?」
「京都ホテルの裏のアパートです」
 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。
「今時分まで、何をしとった……?」
「お友達のお通夜に行っていました」
「商売は何だ……?」
「お友達はダンサーです」
「お前の商売をきいとるんだ」
「ダンサーです」
「なぜ、はだしになっとるんだ……?」
 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。
「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」
「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」
「お友達のアパートへ預けて来ました」
「どこだ、そのアパート」
「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」
「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」
 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。
 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。

      三

 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。
「違います。あたしは……」
 商売女ではないと、陽
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