吉の後姿を見送って振り向くと、眼の前に春隆が立っていた。

      八

 陽子は右の手のハンカチを左手に移して、
「…………」
 春隆が差し伸べた手を握った。
 それが春隆への、いや、自分に通って来るすべての客に対する、陽子のいつもの挨拶であった。
 蓮ッ葉なダンサーのように、
「あーら。来たの」
 と、いきなり飛びついて行ったり、ペラペラと喋ったり――そんなことは自尊心がさせなかった。ことに、東京の家を飛び出して、京都へ来た足でホールへはいった当座は、鉛のようにつんとしていた。貴婦人みたいに冷やかであった。美貌で品が良かったから、それがかえって魅力だと惹かれる客もあったが、たかがダンサーじゃないか、生意気なと、この頃は戦前にくらべると、ホールの柄も落ちていた。ダンサーの粒もまず気位からして下っていた。客を怒らせてはとマネージャーや先輩のダンサーが注意したくらいだった。
「じゃ、あたしよすわ」
 注意されると、令嬢気質がいきなり頭をもたげかけたが、よしてしまっては生きる辛さに負けるようなものだと、やっと自分をおさえた。それに女ひとりでそれくらい新円のはいる商売は、もっと身を堕すか自分を汚すよりほかには、なさそうだ――と思い直しているうちに、少しはホールの雰囲気に馴れて、せめて握手ぐらいは出来るようになったのだ。
 柄が落ちても、さすがにホールといえば、ほかの場所よりも客はきざっぽく気取りたがる。だから握手のきざっぽさもホールでは案外自然だ。
「――しかし、握手が素直な色気になっているのは、このダンサーぐらいだな」
 と、春隆はお茶を引いているダンサーの横をすり抜けて、陽子をホールの真中へ連れて行きながら、思った。
 容姿だけがそう思わせるのではない。昨夜誰かと泊った手で握手されるのは、むしろ頽廃めくが、陽子だけはその踊りっぷりのように固そうだった。
 曲はアロング・ザ・ナバホ・トレール。
 アメリカ西部大陸の滅び行くラテン系移民ナバホの郷愁が、涯しない草原の夜のとばりをさまようかのようなこの曲は、駒の響きを想わせる低音部のくりかえしが印象的で、ふと日本人のセンチメンタリズムをゆすぶるのだったが、陽子は粘って踊るほど柔くなかった。
 ターンの時、相手の膝を自分の両股にぐっとはさんで廻るような技巧も用いず、それが陽子を処女らしく見せていた。
 いや、京吉が土曜日すら清潔だと勘でかぎつけていたように、春隆――この乗竹侯爵の次男坊も、背中へ廻した手の感触で、この女はまだ一度も体を濡らしたことはないと、改めて直感すると、
「今夜こそこの女をどこかへ連れて行って……」
 という想いに心も弾むのだった。
 ついて来ればあとは自信はあるが、果してついて来るかどうか。いや、もしおれがとって置きの一言を言えば、もうおれの誘いを断り切れまい! その一言、春隆はいきなり言った。
「君、学習院の女学部だろう。そうじゃない……?」
「えッ……? はあ、いいえ……」
 狼狽して、ターンした途端に、ホールの入口に佇んでいる京吉の姿が陽子の眼にはいった。陽子はどきんとした。

      九

 丁度その時、上海帰りのルミというダンサーが、自分と踊っていた闇ブローカーの浜田のでっぷり肥えた背中が、陽子につき当ったので、
「阿呆! シミイダンスの尻ばっかし振ってるさかい、衝突するねンし。プロ!」
 プロちゃんで通っている浜田を、すれっからしの口で叱り飛ばしたが、その言葉は陽子の耳にははいらなかった。
 それどころではなかった。春隆の思いがけない一言! そして京吉の顔色!
 陽子は思わず京吉の立っているホールの入口の方へ、気を取られたが、春隆は急にまたターンしたので途端に見えなくなった。
 春隆はやはり陽子が狼狽したのをみると、
「もうこの女はおれのものになったも同然だ」
 という想いのズボンを、陽子の裾にさっと斬り込ませながら、鮮やかにターンして、
「君は、中瀬古さんのお嬢さんでしょう……?」
「違います」
「いや、隠してもだめです。妹の卒業アルバムで、僕は君の写真を見ましたよ」
「…………」
「学習院で妹と同じクラスだったそうですね」
「たぶん、他人の……」
「……空似だなんて、随分君らしくもないエスプリのない科白ですね。どうして君は……」
 と、またくるりと廻って、
「――そんなに隠すんです。もっとも僕が新聞記者なら、隠す必要はあるかも知れない。君のお父さんはとにかく政界の第一人者ですからね。その中瀬古鉱三の令嬢が十番館のダン……」
「誰にもおっしゃらないで! お願いです」
「じゃ、やっぱし……」
 そうだったのかと、春隆のトロンと濁った眼は急に輝いた。そして、何思ったのか、
「――僕あした東京へ行きます」
 ぽつりと、連絡のない言葉を言って、陽子の耳
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