ドレスの裾を持った。
「おれ、お袋なんかねえよ」
 と、京吉もロビイを横切って、
「――おれのいる家の女のことだよ。みんな、ママ、ママと呼んでるから……」
 おれもそう呼ぶんだ――というその言葉は、しかし、半分は聴きとれなかった。
 バンドの騒音が、ホールの入口に近づいた二人の耳に、いきなりかぶさって来たのである。
「ママお二号さんなの……?」
「うん。旦那は土曜だけ来るんだ。おれ居候みたいだろう。だから、旦那に見つからない方がいいんだ」
 京吉は聴えるように、ぐっと体を近づけていたが、ホールの中へはいると、陽子は何思ったのか、いきなり京吉からはなれて、
「あんた、じゃ、ママの燕……? いやねえ」
 不潔だわ――と、顔をそむけた拍子に、ホールの奥の朱塗りの階段が、いつもより毒々しい色で眼に来た。
 ふと、カメラを持っていた木崎のことが、頭をかすめた。陽子の眉は急に翳った。
「えっ……?」
 丁度演奏台の傍をすり抜けている時だったので、京吉には聴えなかったらしい。
「聴えなかったらいいわ」
 顔を見ずに、陽子は疳高く言った。
「燕だというんだろう……? まさか。ママは丙午だよ。大年増だよ」
 と、京吉は二十三歳に似合わぬませた口を利いた。
「いいじゃないの。どうせ年上ならいっそ……」
「二十違っても……? あはは……。まるで怪奇映画だ。おれの趣味じゃないよ」
「どうだか……」
「どうして、そんなにこだわるんだ」
 京吉は陽子の顔を覗きこんだ。
 凛とした気品に冴え返った、ダンサーにあるまじい仮面のような冷やかな顔が、提灯のピンクの灯りに染められて、ふと臈たけたなまめかしさがあった。
「だって、不潔じゃないの。燕だなんて。もし燕だったら、断然絶交よ」
「じゃ、燕でなかったら、おれを泊めてくれる……?」
 京吉はだしぬけにそう言った。
「えっ……?」
 商売柄、口説かれることには馴れていたから、口説かれて、腹の立つことはあっても、もはや驚くことだけはしなくなっている筈の陽子だったが、思わず立ちすくんだ。
 ――とは、一体どうしたことであろう。
 その時、一人の男が椅子に掛けたまま遠くから陽子に会釈した。

      七

 会釈したのは、乗竹侯爵の次男坊の、春隆という三十前後の青年だった。
「ねえ、泊めてくれる……?」
 と、京吉が二十三歳の顔に、十代の無邪気な表情を浮べながら、くりかえす言葉をききながら、陽子は春隆に会釈をかえした。
 乗竹春隆は「乗竹」をもじった「首ったけ」侯爵という綽名をつけられていて、十番館の定連だった。
 十番館には、戦争犯罪容疑者として収容される前夜、青酸加里で自殺した遠衛公爵の三男坊が憂さばらしか、それとも元来享楽的なのか、時どき踊りに来るほか、数名の華族のいわゆる若様が顔を見せて、ある際物雑誌にその行状記を素ッ破抜かれた。
 春隆もその槍玉に挙げられた一人だが、もともと鈍感なのか、大して参りもせず、むろんその雑誌の買い占めに走りまわったりせず、そんな金があればと、せっせとチケットを買って、十番館へ通っていた。
 一つには、そんなことぐらいで謹慎するには、この「首ったけ」侯爵は余りにも陽子に首ったけであった。
 彼は十番館以外のホールへは行かず、また、十番館では、陽子以外のダンサーとは踊らず、陽子が他の男と踊っている時は、大人しく一つ椅子に腰を掛けて、いつまでも同じ姿勢のまま、陽子の体があくまで待っているのだった。
 今夜も茉莉が倒れたどさくさのあとへ来てみると、陽子の姿が見当らぬので、眼だけキョロキョロ動かせていたところだったらしい。
 そして、やっと見つかって、いそいそと会釈したのだが、陽子が京吉と話をしているので、椅子を立つまでは、もう一本葉巻を吸わなくてはなるまい――という彼らしいエティケットで諦めた。
 しかし、京吉にはそんなエティケットの持ち合わせは、耳かきですくう程もなかった。
「ねえ。泊めてくれよ」
「…………」
「今夜……。いけない……?」
「呆れたッ!」
 と、言葉だけでなく、本当に陽子は呆れて、
「――どうしてあんたを泊めなくっちゃならないの……?」
「だって、土曜の晩という奴は、たいていの女は差し障りがあるんだよ。ママみたいに……。茉莉と陽子ぐらいだよ。土曜でも清潔なのは……」
「だって、あんた茉莉に借り切られてるんでしょう」
「だから、茉莉に万一のことがあった時の話さ。死んじゃったりしたら、おれ今夜泊る所が……。おれ、茉莉が死んじゃうような気が……」
「する……? あんたもそんな気がするの……?」
 陽子は急に心配になって来て、
「――あ、そうだ。こんな話してないで、あんた事務所へ行って来てよ。お医者が来てるかどうか。ハバハバ行って見て来てよ」
 そして、ホールを出て行った京
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