んでしまうと、渡り鳥の本能でそのネグラへ帰って来る放浪者のあわれさであった。
「陽子、おれだよ。あけてくれ。邪険はいやだぜ。ねえ、泊めてくれよ」
その京吉の言葉を聴くと、陽子はああ、やっぱし帰って来たわと、薄い肉が透けて見える形の良い耳を、ほんのり上気させた途端、
「あら、あたしどうかしたのかしら。さっきから、横にもならないで、お床の上に坐ったきりでじっとしていたのだわ。あたし一体なにを考えていたのかしら」
浅い眠りの眼覚めに、ふっと襲った寂しさは、茉莉が死んで一人ぽっちになったという、まるで通り魔がすぎ去ったあとのような虚しさでもあったが、しかし、それよりも、眼が覚めてみれば、部屋には灯がついたまま、窓の外は雨が降り、金木犀が匂い、そして踊っていたのは夢だったのか――という憂愁の想いの方が、孤独の底を深くしていた。どんな人間でも持っているあえかなノスタルジアのようなものであった。だから、陽子は食堂車の灯を追うて線路伝いに汽車と一緒にかけ出そうとする子供のように、思いがけず現われて、ふっと消えてしまった京吉の足音を、何かにすがりつきたい女の本能のリズムに添うて、追っていたのだ。
「女のひとを連れて泊りに来るなんて、不潔だわ。もう絶交。だけど、あの女のひと誰だろう」
京吉を軽蔑しながら、しかし、京吉のことをぼんやり考えていたのだ。こんな晩は京ちゃんと踊りたい。でもあたしは追い出すような口を利いたのだわ。
そんな悔恨めいた気持があっただけに、再び戻って来た京吉の言葉をきくと、陽子は思わず起ち上り、日頃の勝気な天邪鬼の手がもはや一皮むけば古い弱い女の手になって、
「どうしたの、京ちゃん、おかしい人ね」
ついぞこれまで、どんな男にもあけなかったドアをあけた。
九
「あら、京ちゃん一人……?」
女のひとと一緒じゃなかったの――と、陽子は京吉がはいったあとのドアを、わざと閉めずにきいた。
「帰っちゃったよ」
陽子の所はむろんはじめてだが、ほかの女のアパートには泊り馴れているせいか、京吉はキョロキョロ部屋の中を見廻したり、坐る場所を探したりせず、いきなり鏡台の前へ坐ると、雨に濡れた靴下を脱ぎながら、呟くように、
「――考えてみれば、あの女は……」
「京ちゃんの恋人なんでしょう……?」
陽子はドアを閉めて、京吉の傍へ来た。京吉一人だと知って、何か割り
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