が現れたのを機会に、作者自身をも登場させて、ここで二、三註釈をはさむことにしたい。
 この物語の主人公は、ダンサー陽子であろうか、カメラマンの木崎であろうか、それとも田村のマダム貴子であろうか、そのパトロンの章三であろうか、またはかつてのパトロンの銀造であろうか、その娘チマ子であろうか、田村の居候の京吉が主人公だともいえるし、京吉を兄ちゃんと呼んでいるカラ子も主人公の資格がないとは言い切れない。乗竹春隆もむろんそうだ。
 そう言えば、アコーディオン弾きの坂野も、その細君の芳子も、その情夫のグッドモーニングの銀ちゃんもセントルイスのマダムの夏子も、貴子の友達の露子も、素人スリの北山も、清閑荘の女中のおシンも、上海帰りのルミ[#「ルミ」は底本では「ルリ」]も、芸者の千代若も、仏壇お春も、何じ世相がうんだ風変りな人物である以上、主人公たり得ることを要求する権利を持っているのだ。
 この物語もはや八十五回に及んだが、しかし、時間的には一昼夜の出来事をしか語っていず、げんに新しい事件と新しい登場人物を載せた汽車が東京へ向って進行している間に、京都でもいかなる事件がいかなる人物によって進行させられているか、予測の限りではない。
 そして、このことは結局、偶然というものの可能性を追求することによって、世相を泛び上らせようという作者の試みのしからしめるところであるが、同時にまた、偶然の網にひっ掛ったさまざまな人物が、それぞれ世相がうんだ人間の一人として、いや日本人の一人として、われわれもまた物語の主人公たり得るのだと要求することが、作者の足をいや応なしに彼等の周囲にひきとどめて、駈足で時間的に飛躍して行こうとする作者をさまたげるのだとも言えよう。
 いわば、彼等はみんな主人公なのだ。十番館のホールで自殺した茉莉ですら主人公だ。しかし、同時にまた、この人物だけがとくに主人公だということは出来ないのだ。
 強いていうならば、げんにいま二等車と三等車の間のデッキに立って、章三と向き合っている新しい登場人物が主人公としてこの資格を、最も多く持っているといえるかも知れない。
 なぜなら、彼女は世相が変らせた多くの日本人の中で、その変り方の最も鮮やかな女であり、かつての日本には殆んど見られなかった人物であるからだ。
 彼女は章三と一瞬にらみ合った。視線が触れ合って火花を散らした――かと思うと、
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