ことだけはたしかだった。自尊心のためには、人殺しすらやりかねない男だったのだ。
 殺すつもりはなかったにしても、そんな結果になってもいいと思っているような突き方だったではないか。
 しかし、あっという声を残して落ちて行ったその男を見た途端、さすがに章三ははっと思って、
「おれは到頭人殺しをしてしまった!」
 という想いに蓋をするように、殆んど本能的に、デッキのドアを閉めたのだった。
「おれがこの汽車に乗ったことは、ただでは済むまい」
 と予感していたのは、実はこれだったのか。自分を取り巻くかずかずの偶然の重なりに、章三は挑戦して、サイコロを投げた。その返答がこれだったのか。
 いわば人殺しという大きな偶然を、自分の宿命的な必然にするために、章三は最初の小さな偶然の襟首をつかんで、自分にひき寄せたといえよう。しかし、更に章三を襲った偶然は、その時その殺人行為を目撃していた者が一人いたということだ。
 目撃者がいなければ、デッキから落ちた男は、自分の過失で落ちたものとされて、章三の罪は永久に闇に葬られてしまうだろう。だから、その時、あわてて閉めたドアの窓ガラスに、若い女の顔がうつったことほど、章三をギョッとさせたものはなかった。
 振り向くと、デッキの隅にすらりと立って、章三の顔をしずかに見ていた。あえかな微笑だった。褐色味を帯びた瞳が、青く底光る眼の中に、ぱちりと澄んで、何かうるんだような感触が、その瞳から迫り、ふと混血児のようであった。そして、その瞳が、
「あなたは今人殺しをしたのでしょう……?」
 と、章三の心の底を覗き込んでいた。
 美貌というものがもし生れつきのものであるなら、いかなる運命がこの女にそんな美貌を与えたのかと思われるくらい、その女は美しかった。そしてまた、美貌というものが才能であるならば、いかなる才能でこの女はこんなに美しく見えるのかと思われるくらいだった。
「おれはいま生れてはじめて、女と対決しているのだ!」
 章三はその女の顔をじっと見つめながら、そう思った。

      九

 読者はこの物語の最初の小見出しが「登場人物」となっている理由を、もはや察したであろう。
 章三が見知らぬ男をデッキから汽車の外へ突き落した現場を目撃していた女――これが新しい登場人物なのだ。章三の人生にとっても、またこの物語にとっても……。
 さて、新しい登場人物
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