けられて、我慢するくらいだったら、死んだ方がましだ」
 というのが章三の信条であり、野心のためにどんな辛いことも我慢するが、自尊心を傷つけられることだけは我慢できず、野心は勿論自分をすっかり投げ出してもいいと思っていたのだ。いわば章三の情熱は野心以上に自尊心の振幅によって動くのだった。
 だから、前後の見境もなく、汽車の中でいきなり貴子を殴ろうとしたのだが、しかし、章三の自尊心はそんな向う見ずを彼に許して置くほど、けちくさい自尊心ではなかったから、二三歩行きかけて、急に立ち停った。
「あの女をいまここで殴れば、おれの自尊心は二重に傷つくのだ」
 章三は傷ついたままズキズキと膿み出している自尊心のはけ口のない膿を、持て余したまま、踵をかえすと、三等車との間のドアをあけて、デッキへ出た。そして、デッキのドアをあけて、吹きこむ雨風に打たれて、頭をひやそうとすると、
「ばか野郎!」
 デッキにうずくまっていた男が、どなった。
「……? ……」
「雨がはいるじゃねえか。間抜けめ!」
「…………」
 章三は血相を変えた。
「閉めろ!」
「…………」
「閉めろといったら閉めろ! つんぼか……?」
 男は起ち上って、ドアを閉めようとした。が、章三はドアのハンドルをつかんではなさなかった。
「こいつ!」
 男は章三の胸を突いた。胸に溜っていた自尊心の膿ははけ口を求めて、あふれ出た。章三はものもいわず、精一杯の力をこめて、どんと男の胸を突いた。男はあっという間に、デッキの外へ落ちてしまった。
「あっ!」
 章三は本能的にドアを閉めた。途端に、雨に濡れたドアの窓に若い女の顔がうつった。章三はギョッとして振り向いた。

      八

 章三はその男を殺すつもりで、デッキから突き落したのではなかった。
 はじめにその男が章三の胸を突いたのだ。章三はただ突きかえしただけに過ぎない。もし、その男と章三が位置を変えていたとすれば、章三の方がデッキの外へ落ちたかも知れないのだ。
 殺意はなかったのだ。しかし、ドアがあいていることは知っていた。突けば落ちるだろうということも無意識のうちに感じていた。土砂降りの雨の中へ、その男が土人形のように落ちて行く姿も、その男の胸を突きかえす一瞬前に、章三の頭に閃いていた。だから、よしんばその男が必ず死ぬと判っていても、章三はやはりその男を突いただろう――という
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