なかった。自信がなければ、気合は掛けなかったのだ。追い込んで、抜く自信がある時だけ、ゴール直前で使う名騎手の鞭のような気合であった。
「くそッ! 五万!」しかし、五万でも八万でもなかった。
「なんだ、紅中(ホンチュン)か!」紅中ならカンになっており、リンシャンカイホウ(同じパイが四枚の時、もう一度ツモってそれで上る上り方)のチャンスがある。
 一同ははっと固唾を呑んだ。グッドモーニングの銀ちゃんは、煙草の火のついた方を口の中に入れて、火を消してしまった。弁士上りのグッドモーニングの銀ちゃんは、ひとの二倍は唇が分厚かった。
 京吉はもう黙って、手の汗を拭くと、すっと手を伸ばして、リンシャンパイを掴んで、ギリギリと掻くようにパイの表を撫ぜた。見なくとも、触感だけで判る。五万だった。京吉はがっかりしたように、パイを倒した。
「おれ知らねえよ。満貫だよ。五八(ウーパー)のトイトイだ。ウーファンだ。満貫だろう。意味ないよ。キャッキャッだ。怒るなよ。おれ辛いよ。感じ悪いだろう。おれのせいじゃないよ。怒るなよ」
 とりとめもないことを、ひとりペラペラ喋っていると、ふと孤独の想いがあった。
「ひでえキャッキャッだよ。おれも随分キャッキャッは見て来たが、おたくのようなキャッキャッははじめてだ。こうなりゃ、おれもやけだ。五六ちゃん、おれたちもキャッキャッで行こうよ」
 グッドモーニングの銀ちゃんがガラガラとパイをかきまぜながら言うと、祇園荘の女が、
「キャッキャッって、一体何のことです……? はい、満貫の景品!」
 卓子へ寄って来て、景品の煙草を置くと、何気なく京吉の肩へ手を載せた。
「揉んでくれ。おれも年取ったよ」
 京吉はふと女の顔を覗きこんで、ほう、ちょっといけるな――。いきなり、
「――今夜一緒に寝ようか。キャッキャッとは即ち寝ることだよ」
「知りまへん」
 女は赤くなって逃げて行った。
「いやか。いやで幸いだ。義理何とかは三年寿命が縮むと来てやがらア」
 パイを並べながら、もう軽佻浮薄な口を利いている、このとりとめなさは一体何であろう。一度満貫のスリルを味わってしまえば、もう交尾を終った昆虫のように、緊張は去り、ヒロポンの切れ目にも似た薄汚い粉だらけのような黄色い倦怠が来ていたのだろうか。
「ところがまた、そういうのに限って、よく孕みやがるんでね。ひでえ目に会うたよ。いやいや
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