こうともしなかったのは「げす」と言われたことに、むしろ喜びを感じていたからだ。
 勿論、木崎は自分をげすだとは思っていなかった。しかし、女というのを官能の角度からでしか見られない自分のデカダンスを、もはや主張する気にもなれないくらい、木崎はデカダンスであったが、しかし、げす[#「げす」に傍点]と言われたことに甘んずる自虐の喜びではなかった。
 陽子が自分を「げす」と呼んで、ふんがいして出て行ったことを、デカダンスの沼に溺れている自分が掴むせめてもの藁にしたかったのだ。矛盾ではあったが、しかし、それが恋情というものであろう。なぜ陽子がそんな薄汚い草履をはいて来たのか、木崎には判らなかったが、しかし、草履をはいた陽子の後姿は、いつまでも瞼にこびりつき、淡い失恋の甘さにも似た後味があった。
「これでいいのだ」
 ほっとした諦めであった。陽子を見た途端「しまったッ!」もうおれはこの女とはただでは済まない――という悔恨が、薄れて行く安心であった。
 木崎は煙草に火をつけた。そして、かつて八重子への嫉妬に苦しんでいた頃、「法華経」の中から見つけ出した――
「愛する者に相逢うなかれ」
 という文句をふと想い出していると、煙草は孤独のにおいがした。
 しかし、配給の「ひかり」はすぐ火が消えた。木崎はごろりと仰のけに転って、天井をながめた。
 天井には蜘蛛が巣をつくっていた。
「女たらしになってやろうか」
 何の連想か判らない。が、だしぬけに泛んだこの考えに、木崎はどきんとした。
 その時、いきなりドアがあいた。木崎ははっと起き上った。ドアをあけたのは陽子だった。
 陽子は真青な顔で突っ立っていた。肩がふるえていた。
 そして、そのふるえが、身体全体に移ったかと思った途端、陽子はいきなり木崎の前へぺたりと坐った。

      七

「木崎サン!」
 陽子ははじめて木崎の名を口にして、
「――あなたはなぜ、わたくしを侮辱……」
 しなければならないのか――という、あとの声はふるえて出なかった。
 そんなに昂奮している状態が、陽子はわれながら情なかった。
「げすッ!」
 と、いって一旦飛び出したのにおめおめと戻って来るなんて、自尊心が許さなかったが、しかし、やはり戻って来たのは、ただ、チマ子のことづけがあるためだけだろうか。
 何か得体の知れぬものが陽子を引き戻したのではなかろうか。し
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