びっくりしたように、木崎はききかえした。
「ダンサーだって真面目な職業ですわ」
陽子の口調は、新聞記者に語るダンス教師のように、ふと正面を切っていた。
「――ダンサーは労働者と変りはないんです。わたくし達は、三分間後ろ向きに歩いて、八十銭の賃金を貰う労働者です。わたくし達は、一晩のうちに、何里という道を歩くのです。人力車夫と同じ肉体労働者です。真冬でも、ぐっしょり汗をかきますわ」
ああ、その汗……と、木崎は想い出した。背中のくぼみにタラタラと流れるその汗を、木崎は、女の生理のあわれな溜息のように見たのだった。
その同じ汗を、亡妻の八重子は死ぬ前の日に流していたのだ。
木崎は夏に八重子と結婚した。木崎の借りていたアパートの一部屋で過した初夜の蚊帳を、木崎は八重子と二人で吊った。暗くして、螢を蚊帳の中に飛ばした。螢のあえかな青い火は、汗かきの八重子のあらわな白い胸のふくらみの上に、すっと停って瞬いた。
しかし、胸を病んでからの八重子は、もうどんなに暑い夜でも、きちんと寝巻を着て、ひとり蚊帳の中に寝た。汗をかく力もないくらい、衰弱していたのだ。
そして、死ぬ前の晩、八重子はか細い声で木崎を蚊帳の中に呼び入れて、
「短い縁だったわね」
ポロリと涙を落して、木崎の頭髪を撫でていたが、急にはげしく燃えた。
「ばか、死ぬぞ!」
「死んでもいい! 死んでもいい!」
と、叫ぶ八重子の体は寝巻の上から触れても、火のように熱く、掌には汗がにじみ、八重子の最後のいのちを絞り出したような、哀しい触感だった。――木崎はこの時ほど、妻の中の女のあわれさを感じたことはなかったのだ。
「しかし、その汗は、男に絞り出された汗じゃないか! 男と手を握り合って流す汗じゃないか」
木崎は苛々した声で言った。陽子はものも言わず、いきなりハンドバッグを掴んで、起ち上った。
六
「おやッ!」
怒ったのか――と見上げた木崎の顔へ、陽子は投げつけるように、
「げす[#「げす」に傍点]ッ!」
白い眼をキッと向けたかと思うと、もう背中を向けていた。
そして、さっと部屋を出て行こうとしたが、はいてみれば草履はみじめだった。陽子は半泣きになったが、しかし、ドアの音だけは、さすがに自尊心のように高かった。木崎はぽかんと坐っていた。
「何がげす[#「げす」に傍点]だッ!」
と、追って行
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