来なかった。「大晦日には帰る」という言葉と、小隊長をオトラ婆さんに残して、炭坑へ働きに行ったのである。
「あたしゃ一杯くわされた」
 オトラ婆さんは口惜しがったが追っつかず、小隊長と二人でひっそり暮した。ある日小隊長は腹部に激痛を訴えたので、驚いた婆さんは灸を据えたが、医者は診て、こりゃ盲腸だ、冷やさなくちゃいけないのに温める奴があるかと、散々だった。幸い一命を取りとめ、手術もせずに全快したのは一枝や、千代やそれから千代の隣の水原芳枝という駅の改札員をしている娘たちの看病の賜といってはいい過ぎだろうか。この三人は小隊長の病気以来ずっとこの家に泊りこんでいるのである。オトラ婆さんだけに小隊長を任しておけないというのだろう。三人は小隊長やオトラ婆さんと同じように大晦日の来るのを待っていたが、しかし何故待つのだろう、誰を待ったのだろう。
 大晦日が来た。夕方、千代の馬車が家の前に停り、降りたのは稗田であった。千代は稗田のあとについてのこのこ家の中へはいった。一時間して照井が帰って来た。白崎とは駅まで一緒だったが、奴さん、改札口で手間取っているから置いて来たと照井は笑った。白崎は半時間経って帰
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