ついて蚊帳の中へはいろうとすると、
「お前は蚊帳の外で、出来るまで弾くんだ」
 という父の声が来た。
 寿子は眠い眼をこすりながら、弾き出した。庄之助は蚊帳の中で聴いていた。
「もう一度。出来たというまで弾け」
 数珠の玉をたぐり寄せるようなバッハのフーガ。それを、寿子はそれこそ数珠の玉をたぐるように、何度も何度も弾き、弾かねばならなかった。父はいつまでたっても
「出来た」
 と言ってくれなかった。
「喧しいね」
 と、母親の礼子は吐きだすように言って、寝がえりを打った。
 礼子は寿子の生みの親ではない。礼子は寿子の母親の妹であったが、寿子の母親が寿子の三つの年になくなって間もなく、後妻にはいったのである。寿子にとっては昨日までの叔母が急に継母に変ったわけである。
 もとは叔母姪の間柄であったから、さすがに礼子は世の継母のように寿子に辛く当ろうとはしなかった。むしろ、良い母親といってもよかった。
 しかし、夫の庄之助が今日この頃のように明けても暮れても寿子にかまけていて、礼子自身腹を痛めた弟や妹たちとはくらべものにならぬ位、寿子に熱中しているのを見ると、さすがに礼子はいい気はしなかった
前へ 次へ
全18ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング