。おまけに、庄之助が寿子相手の稽古に没頭して、自分の仕事を顧みなくなってからは、家の暮しが一層困って来ているのを思うと、礼子ももはや寿子の良い母親になっているわけにはいかず、いつか継母じみて来るのだった。
 というそんな微妙な事情を、寿子はさすがに継子の本能で、敏感に嗅ぎつけていたから、自分の眠れないことよりも、まず自分のヴァイオリンが母親の眠りを邪魔をしていることの辛さが先立つのだった。
 だから、早いこと巧く弾いて、父親から「出来た」と言われようと焦るのだったが、思うように弾けなかった。
 夜が更けて来た。
 寿子はわっと泣き出したかった。が、泣くまいと堪えていたのは、生れつきの勝気な気性であったろうか。
 しかし、寿子の眼は不思議に、冷たく冴え返っていた。その眼の光は、父親の庄之助でさえ、何かヒヤリと感ずる程であった。一皮目の切れの長いその眼は、仮面の眼のようであった。虚無的に迫る青い光を、底にたたえて澄み切っているのである。月並みに、怜悧だとか、勝気だとか、年に似合わぬ傲慢さだとか、形容してみても、なお残るものがある不思議な眼だった。
 ところが、憑かれたように、バッハのフーガ
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