「――そのためには、軍楽隊もやめます。指揮もやめます。そして、私の生活のすべてを犠牲にして、道なき道を歩みながら、寿子を日本一のヴァイオリン弾きに仕込みます」
 氏神の前にそう誓ったのである。やがて、庄之助は長いお祈りを終えると、
「さア帰ろう」
 と、寿子の小さな手を握った。ヴァイオリン弾きになるには、あまりにも小さ過ぎる手であった。
 そして、庄之助はわき眼もふらずに、そわそわと歩きだした。
 北向き八幡宮へも寄らなかった。露店の前にも立ち止らなかった。寿子は父の大股の足について行きながら、半泣きになっていた。冷やし飴一杯も飲まずに、家へ帰ると庄之助は昂奮した声で、怒鳴るように言った。
「さア寿子、稽古だ!」

       三

 乾いた雑巾から血を絞り取るような苦しい稽古が、その日から繰りかえされた。
 学校から帰ると、寿子はもう父の手につかまえられて、ヴァイオリンを持たされた。そして、稽古は夜更くるまで続く日もあった。
 覚えの悪い日は、ヴァイオリンを持って立たされていた。
 寿子の身体は、古綿を千切って捨てたように、クタクタに疲れた。
 昼間、教室の中で居眠りすることが
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