多かった。受持ちの訓導は庄之助を呼んで注意した。が、庄之助はその訓導と喧嘩して帰った。
 彼は氏神の前に誓った通り、もう仕事にも出掛けず、弟子も取らず、一日家にいて、そして寿子が学校へ出掛けた留守中は、どうすれば人一倍小柄な寿子の貧弱な体格で、元来西洋人の体格に応じた楽器であるヴァイオリンが弾きこなせるだろうか、どうすれば人一倍小さな寿子の指で弦がマスターできるだろうかと、考え込んでいた。
 そして、玄関で、
「只今」
 という寿子の声がきこえると、もうピアノの前に坐っていた。そのピアノは既に抵当にはいっているものだったが……。
 その日の米にも困る暮しであった。庄之助の稽古は、その貧乏故に一層きびしかった。
 よその子が皆遊んでいるのに、自分は何故遊べないのだろうかと、寿子は溜息つきながら、いつもヴァイオリンを肩にあてるのだった。
 ある夏の夜のことであった。
 何度くりかえしても、寿子は巧く弾けなかった。曲はバッハのフーガ。
「莫迦! そんなことで日本一のヴァイオリン弾きになれるか」
 怒って庄之助はそういい捨てて、蚊帳の中へはいってしまった。
 寿子はベソをかきながら、父のあとについて蚊帳の中へはいろうとすると、
「お前は蚊帳の外で、出来るまで弾くんだ」
 という父の声が来た。
 寿子は眠い眼をこすりながら、弾き出した。庄之助は蚊帳の中で聴いていた。
「もう一度。出来たというまで弾け」
 数珠の玉をたぐり寄せるようなバッハのフーガ。それを、寿子はそれこそ数珠の玉をたぐるように、何度も何度も弾き、弾かねばならなかった。父はいつまでたっても
「出来た」
 と言ってくれなかった。
「喧しいね」
 と、母親の礼子は吐きだすように言って、寝がえりを打った。
 礼子は寿子の生みの親ではない。礼子は寿子の母親の妹であったが、寿子の母親が寿子の三つの年になくなって間もなく、後妻にはいったのである。寿子にとっては昨日までの叔母が急に継母に変ったわけである。
 もとは叔母姪の間柄であったから、さすがに礼子は世の継母のように寿子に辛く当ろうとはしなかった。むしろ、良い母親といってもよかった。
 しかし、夫の庄之助が今日この頃のように明けても暮れても寿子にかまけていて、礼子自身腹を痛めた弟や妹たちとはくらべものにならぬ位、寿子に熱中しているのを見ると、さすがに礼子はいい気はしなかった。おまけに、庄之助が寿子相手の稽古に没頭して、自分の仕事を顧みなくなってからは、家の暮しが一層困って来ているのを思うと、礼子ももはや寿子の良い母親になっているわけにはいかず、いつか継母じみて来るのだった。
 というそんな微妙な事情を、寿子はさすがに継子の本能で、敏感に嗅ぎつけていたから、自分の眠れないことよりも、まず自分のヴァイオリンが母親の眠りを邪魔をしていることの辛さが先立つのだった。
 だから、早いこと巧く弾いて、父親から「出来た」と言われようと焦るのだったが、思うように弾けなかった。
 夜が更けて来た。
 寿子はわっと泣き出したかった。が、泣くまいと堪えていたのは、生れつきの勝気な気性であったろうか。
 しかし、寿子の眼は不思議に、冷たく冴え返っていた。その眼の光は、父親の庄之助でさえ、何かヒヤリと感ずる程であった。一皮目の切れの長いその眼は、仮面の眼のようであった。虚無的に迫る青い光を、底にたたえて澄み切っているのである。月並みに、怜悧だとか、勝気だとか、年に似合わぬ傲慢さだとか、形容してみても、なお残るものがある不思議な眼だった。
 ところが、憑かれたように、バッハのフーガを繰りかえして弾いているうちに、さすがに寿子の眼は血走って来た。充血して痛々しいくらいである。おまけに、夜更けとともにおびただしく出て来た蚊は、寿子の腕や手や首を、容赦なく刺すのだった。
「可哀想に……」
 という身を切られるような想いが、さすがにちらと庄之助の胸をかすめたが、しかし、彼は依然として、寿子を蚊帳の中へ入れようとせず、また、「出来た」とも言わなかった。
 そのような庄之助の冷酷さを見ると、さすがの礼子も、寿子にふと同情の念を催すくらいであった。
「しかし、寿子も寿子だ」
 と、礼子はまた思った。今夜はもうこの位で勘弁してくれと、頼めばよさそうなものだのに、頑として蚊帳の外に頑張っているその依固地さは、十や十一の少女とは思えなかった。
「親も親なら、娘も娘だ」
 どちらも正気の沙汰ではないと、礼子はむしろ呆れかえった。
 夏の短夜は、やがて明け初めて来た。が、寿子は依然として弾いている。蚊帳の中の庄之助は鉛のような沈黙を守っている。余りだまっているので、寿子は、父はもう眠ってしまったのかも知れぬと、思った。が、それでも弾いていると、いきなり、
「出来た!」
 蚊帳の中から、
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