父の声が来た。
寿子はわっと泣きだした。パパはやっぱり起きて聴いていたのだ。――庄之助の眼も血走っていた。そして、涙をためていた。が、寿子には、その父の顔がはっきり見えなかった。その夜の内に、眼を悪くしていたのである。やがて、寿子は眼医者へ通わねばならなかった。しかし眼医者に払う金もないような貧乏暮しだった。寿子は眼医者に通う途中、少女雑誌を持って古本屋へ立ち寄り、金に換えねばならなかった。
四
やがて、寿子の腕は、庄之助自身ふと嫉妬を感ずる位、上達した。
十三で小学校を卒業して、間もなく、東京日日新聞主催の音楽コンクールが東京で行われた。
寿子は大阪で行われた予選で第一位を占めた。庄之助は、旅費を工面すると、寿子を連れて上京した。
コンクールの課題はコレリー作の「ラフォリア」であった。
コンクールを受けた連中はいずれもうやうやしく審査員に頭を下げ、そして両足をそろえて、つつましく弾くのだったが、寿子はつんとぎこちない頭の下げ方をして、そしていきなり股をひらいて、大きく踏ん張ると、身体を揺り動かしながら、弾き出すのだった。何か身体ごとヴァイオリンに挑み掛っているように感じられるその行儀の悪い弾き方は、庄之助が寿子のような小柄な体格でどうすれば強い音を出すことが出来るだろうかと、考えた末の弾き方であったが、しかし審査員達はそんな意味には気づかず、乗合自動車の女車掌のような寿子の姿勢に、思わず苦笑した。しかし、やがて豪放な響きが寿子のヴァイオリンから流れ出すと、彼等の表情は一斉に緊張した。彼等には今自分たちの前で「ラフォリア」を弾いている人間が、お河童の十三歳の少女であるとは、もはや信じきれなかった。
コンクールの成績が発表されると、寿子は第一位になっていた。第二位との開きが大き過ぎて、主催者側では普通の賞では寿子にふさわしくないと思う位だった。そこで、あわてて文部大臣賞というものを特に作って、それを寿子に与えることにして、主催者側はやっと満足した。それほどの素晴しい出来栄えだったのである。
審査に立ち合ったクロイツァーは、
「自分は十三歳のエルマンの演奏を聴いたことがあるが、エルマンはその時、この少女以上にも、以下にも弾かなかった」
と、激賞した。また、レオ・シロタは、
「ハイフェッツにしても、この年でこの位弾けたかどうか疑問だ」
と無茶苦茶なほめ方だった。
ローゼンシュトックは、
「あの子は悪魔の子だ」
と、呟いた。
相手が十三歳の子供だというので、ほめる方でも子供のように、落ち着きを失っていた。
庄之助が懐の金を心配しながら、寿子と二人で泊っていた本郷の薄汚い商人宿へは、新聞記者やレコード会社の者や、映画会社の使者や、楽壇のマネージャー達がつめかけた。
彼等は異口同音に「天才」という言葉を口にした。すると、庄之助は何思ったか、急にけわしい表情になって、
「天才……? 莫迦莫迦しい。天才じゃありません。努力です。訓練です。私はもう少しでこの子を殺してしまうところでした。それほど乱暴な稽古をやったのです。ところが、この子は運よく死ななかっただけです。天才じゃありません。寿命があったんですよ。それだけです」
食って掛るような口調だった。そんな口調のかげには、かつて自分の稽古がきびし過ぎたために、弟子が寄りつかなくなったという想出の恨みが、籠っていた。「津路式教授法」を不当に扱って来た世間というものに対する反逆心も含まれていた。そしてまた、寿子がもし天才だけで現在のようになったとすれば、この数年間、自分が生活のすべてを犠牲にして来たことが無意味になるではないか、という気持もあった。彼はただ現在の寿子を、自分の音楽への情熱の化身と思いたかったのである。
しかし、こんな庄之助の言い方は、相手を気まずい気持にさせた。おまけに、相手が寿子の演奏会やレコード吹き込みの話を持ち出すと、庄之助は自分から演奏料の金額を言い出して、
「鐚一文かけても御免蒙りましょう」
と、一歩も譲らなかった。
それは、一少女の演奏料としては、相手を呆れさせる、というより、むしろ怒らせるに足る程の莫大な金額であった。
しかし、その金額や、その一歩も譲らない態度は、庄之助自身を不遇な音楽的境遇に陥れた楽壇への復讐であった。
そしてまた、楽壇の腐敗した空気に対する挑戦でもあった。かつての音楽家はつねにマネージャーやレコード会社の社員の言いなりになり、誇張していえば、餌食になっていた。音楽家はそれらの人々の私腹を肥すことに努力することによって、辛うじて演奏にありついて来たのである。
ところが、相手はそんな庄之助を見て、あっけに取られてしまった。
「さすが大阪の奴は、金のことにかけると汚いわい」
と、思ってみたり
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