ぱりながら、さっさと人ごみをかきわけて足速に歩くのだった。
途中、左手に北向き八幡宮があった。そこでも今年は、去年のように、金色夜叉やロクタン池の首なし事件の覗きからくりや、ろくろ首、人魚、海女の水中冒険などの見世物小屋が掛っているはずだ。
寿子はそう思って、北向き八幡宮の前まで来ると、境内の方へ外れようとしたが、庄之助はだまって寿子の手をひっぱると、さっさと生国魂神社の石段の方へ連れて行った。
拝殿の前まで来ると、庄之助は賽銭を投げて、寿子に、
「日本一のヴァイオリン弾きになれますようにと、お祈りするんだぞ」
と、言った。
寿子は言われた通り、小さな手を合わせて、
「日本一のヴァイオリン弾きになれますように」
と呟いてから、
「――パパが見世物小屋へ連れて行ってくれますように」
そして、頭をあげて、ふと父親の方を見ると、庄之助はまだ頭を下げていた。そして何やら口の中でブツブツ言っていた。
拝殿では、白い着物を着て赤い袴をはいた二人の男女が、一人は鈴を持ち、一人は刀を持って踊っていた。
庄之助はまだ拝んでいる。寿子はふっとおかしくなって、
「パパは何をお祈りしているのやろ?」
と、肚の中で呟いた。
庄之助は何を祈っているのだろうか。
――彼は大阪では少しは人に知られたヴァイオリン弾きであったが、年中貧乏していた。「津路ヴァイオリン教授所」の看板を掛けているのだが、偏屈なのと、稽古が無茶苦茶にはげし過ぎるので、弟子は皆寄りつかなくなって、従って収入りも尠かったのである。
ヴァイオリンなぞ艶歌師の弾くものだと思いこんでいた親戚の者たちは、庄之助に忠告して、
「ヴァイオリンみたいなもの廃めてしもて、何ぞ地道な商売をしたらどないや」
と言うのだったが、きかなかった。そして相変らず「津路式教授法」と自称するきびしい教授法を守りながら、貧乏ぐらしを続けるのだった。
ところが、去年の秋、俗に赤新聞とよばれている大阪日日新聞の音楽コンクールで、彼の三人の弟子たちが三人とも殆ど最高点に近い成績を取った。
「それ見ろ」
と庄之助は呟いた。
「――世間の教師らはヴァイオリンの教授を坊ちゃん嬢ちゃん相手の機嫌取り同然に思っているが、俺の弟子はきびしい教え方のおかげで、皆んな良い成績を取ったではないか」
これで永年の自分の主義も少しは報いられたというものだ、これからはもう自分の天下だ、弟子もふえるだろう、いや門前市をなすかも知れないと、彼は喜んだ。
ところがそのコンクールはかえって「津路の稽古はきびし過ぎる、あんな稽古をやられては助からぬ」というこれまでの悪評に、ますます拍車を掛けるような結果になった。誰も彼も庄之助の熟を敬遠した。そして弟子は減る一方で、塾はさびれ、彼の暮しは一層みじめなものになった。
そこで彼は、土地の軍楽隊に籍を置いたり、けちな管弦楽団の臨時雇の指揮をしたりして、口を糊《のり》しながら、娘の寿子を殆ど唯一人の弟子にして「津路式教授法」のせめてものはけ口を、幼い寿子に見出して来たのであった。
ところが、今日、寿子が弾いた「チゴイネルヴァイゼン」の素晴しさは、庄之助を驚かせた。それは天才的な閃きといってもいい位であった。
「こりゃ、もしかしたら大物になるかも知れないぞ」
と彼は思った。すると、元来熱狂し易い彼は、寿子を大物にするために、すべてを犠牲にしようと思った。
彼はヴァイオリン弾きとしての自分の恵まれぬ境遇を振りかえってみた。そして、自分の音楽への情熱と夢を、娘の寿子によって表現しようと、決心したのである。
「――そのためには、軍楽隊もやめます。指揮もやめます。そして、私の生活のすべてを犠牲にして、道なき道を歩みながら、寿子を日本一のヴァイオリン弾きに仕込みます」
氏神の前にそう誓ったのである。やがて、庄之助は長いお祈りを終えると、
「さア帰ろう」
と、寿子の小さな手を握った。ヴァイオリン弾きになるには、あまりにも小さ過ぎる手であった。
そして、庄之助はわき眼もふらずに、そわそわと歩きだした。
北向き八幡宮へも寄らなかった。露店の前にも立ち止らなかった。寿子は父の大股の足について行きながら、半泣きになっていた。冷やし飴一杯も飲まずに、家へ帰ると庄之助は昂奮した声で、怒鳴るように言った。
「さア寿子、稽古だ!」
三
乾いた雑巾から血を絞り取るような苦しい稽古が、その日から繰りかえされた。
学校から帰ると、寿子はもう父の手につかまえられて、ヴァイオリンを持たされた。そして、稽古は夜更くるまで続く日もあった。
覚えの悪い日は、ヴァイオリンを持って立たされていた。
寿子の身体は、古綿を千切って捨てたように、クタクタに疲れた。
昼間、教室の中で居眠りすることが
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