東京文壇に与う
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)跼蹐《きょくせき》している
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\の文学が
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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豪放かつ不逞な棋風と、不死身にしてかつあくまで不敵な面だましいを日頃もっていた神田八段であったが、こんどの名人位挑戦試合では、折柄大患後の衰弱はげしく、紙のように蒼白な顔色で、薬瓶を携えて盤にのぞむといった状態では、すでに勝負も決したといってもよく、果して無惨な敗北を喫した。試合中、盤の上で薄弱な咳をしていたということである。
この神田八段は大阪のピカ一棋師であるが、かつてしみじみ述懐して、――もし、自分が名人位挑戦者になれば、いや、挑戦者になりそうな形勢が見えれば、名人位を大阪にもって行かせるなと、全東京方棋師は協力し、全智を集注して自分に向って来るだろうと、言ったということである。私はこれをきき、そしていま、単身よく障碍を切り抜けて、折角名人位挑戦者になりながら、病身ゆえに惨敗した神田八段の胸中を想って、暗然とした。
東京の大阪に対する反感はかくの如きものであるか。しかし、私はこれはあくまで将棋界のみのこととして考えたい。すくなくとも文壇ではこのようなことはあるまいと、考えたい。文学の世界で、このようなことが起るとは、想像も出来ないではないか。
けれど、たとえば、宮内寒弥氏はかつて、次のように書いて居られた。
「夫婦善哉は、何故か、評判がよくなかったが、大阪のああいう世界を描いた限り、私は傑作だと思った。唯、不幸にして描かれた男女の世界が、当代の風潮に反していたことと、それに、あの中の大阪的なものが、東京の評家の神経にふれて、その点が妙な反感となったのかも知れないと思う。これは、織田氏にとっては単なる不幸として片附け得ると思う。東京の評家というのは量見がせまいことになるが、東京の感情と大阪の感情の対立が、あの作品を中心として、無意識に争われなかったとは云い切れぬと思う。東京と大阪の感情は、永遠に氷炭相容れざるものと思う。だから、東京中心の今日の文学感情が、織田氏に反感を感じたことは、織田氏にとっては、それだけに大阪的であったということにもなるのであって、逆にいえば名誉である。おそらく、あの作品は大阪の
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