読者にとっては、全々別な味がしたのではないか、と思われる」
私の作品に好意的に触れておられる文章故、いささか気がさしながら引用したのであるが、要するに、これをもって見れば、すくなくとも、大阪的な作品は東京文壇の理解するところとならぬのではあるまいか。
どうせ、文学に対する考え方なぞ、人生に対する考え方とおんなじで、十人十色であり誰の作品にしろ、作者が意気ごんで待ち構えているほどには、いいかえれば、作者が満足する程度に、理解されることなぞ、まかりまちがっても有り得ないのであるから、なにも大阪的な作品が東京文壇に理解されないといって、悲しむにも当らないのであるが、しかし、大阪に対するある種の感情が理解を阻んでいるとすれば、いや、そう言われてみれば、「単なる」にしても、とにかく一つの「不幸」として考えられないわけではない。
だからといって、私は姑に虐められた嫁のように、この不幸に打ち沈んでいるわけではさらにない。むしろサバサバしている。というのは、実は嫁の方ではじめから姑に愛想をつかしていたからである。姑はなんでもかんでも、自分の言う通りせよと言う。それをいやだと、言ったのである。
「そんなことを考えると、私は、織田氏の勇敢さを感ずる。織田氏程の人が、東京の感情に合うような細工が出来ない訳はないだろうし、そういう細工をすれば、というくらいのことを感じないわけはないと思うが、それにも拘らず、あの作品を書き送ったということは、東京文壇に対する一種の反逆と見られないことはないと思う」
と、宮内氏も書いて居られる通りだ。東京の標準文化なぞ、御免だと、三年間、東京にいる間に、愛想をつかしたのである。東京の標準の感覚で見た標準人を標準語で描くような文学に愛想をつかしたのである。
東京に自分の青春なぞあると思ったのは、間ちがいだったと、私は東京の心理主義文化に歪められた自分の青春を抱いて、三勝半七のお園のように、「お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻ゆゑ、そひ臥しは叶はずとも、お傍に居たいと辛抱して、是まで居たのがお身の仇」と呟いて、東京にさよならしたのである。反感をもたれても、致し方ない。
故郷の大阪へ帰った私は、しかしお園のように、
「去年の秋のわづらひに、いつそ死んでしまつたなら」などと、女々しくならずに、いそいそと新しい大阪という夫のふところに抱かれた。既に、私
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング