聴雨
織田作之助
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(例)襟首《えりくび》
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(例)大橋|宗家《そうけ》
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(例)[#地から1字上げ](昭和十八年八月)
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午後から少し風が出て来た。床の間の掛軸がコツンコツンと鳴る。襟首《えりくび》が急に寒い。雨戸を閉《し》めに立つと、池の面がやや鳥肌立つて、冬の雨であつた。火鉢に火をいれさせて、左の手をその上にかざし、右の方は懐手《ふところで》のまま、すこし反《そ》り身《み》になつてゐると、
「火鉢にあたるやうな暢気《のんき》な対局やおまへん。」といふ詞《ことば》をふと私は想ひ出し、にはかに坂田三吉のことがなつかしくなつて来た。
昭和十二年の二月から三月に掛けて、読売新聞社の主催で、坂田対木村・花田の二つの対局が行はれた。木村・花田は名実ともに当代の花形棋士、当時どちらも八段であつた。坂田は公認段位は七段ではあつたけれど、名人と自称してゐた。
全盛時代は名人関根金次郎をも指し負かすくらゐの実力もあり、成績も挙げてゐたのである故、まづ如何《いか》やうに天下無敵を豪語しても構はないやうなものの、けれど現に将棋家元の大橋|宗家《そうけ》から名人位を授けられてゐる関根といふ歴《れつき》とした名人がありながら、もうひとり横合ひから名人を名乗る者が出るといふのは、まことに不都合な話である。おまけに当の坂田に某新聞社といふ背景があつてみれば、ますます問題は簡単で済まない。当然坂田の名人自称問題は紛糾をきはめて、その挙句《あげく》坂田は東京方棋士と絶縁し、やがて関東、関西を問はず、一切の対局から遠ざかつてしまつた。人にも会はうとしなかつた。
彼の棋風は、「坂田将棋」といふ名称を生んだくらゐの個性の強い、横紙破りのものであつた。それを、ひとびとは遂《つひ》に見ることが出来なくなつた。かつて大崎八段と対局した時、いきなり角頭の歩を突くといふ奇想天外の手を指したことがある。果し合ひの最中に草鞋《わらぢ》の紐を結ぶやうな手である。負けるを承知にしても、なんと不逞々々《ふてぶて》しい男かと呆《あき》れるくらゐの、大胆不敵な乱暴さであつた。棋界は殆んど驚倒した。一事が万事、坂田の対局には大なり小なりこのやうな大向《おほむか》ふを唸《うな》らせる奇手が現はれた。その彼が急に永い沈黙を守つてしまつたのである。功成り遂《と》げてからといふならまだしも、坂田将棋の真価を発揮するのはこれからといふ時であつた。大衆はさびしがつた。
けれど、坂田の沈黙によつて、棋界がさびれた訳ではない。木村・金子たち新進が擡頭し、花田が寄せの花田の名にふさはしいあつと息を呑むやうな見事な終盤を見せだした。定跡《ぢやうせき》の研究が進み、花田・金子たちは近代将棋といふ新しい将棋の型をほぼ完成した。さうして、棋界が漸《やうや》く賑《にぎ》はつたところへ、関根名人が名人位引退を宣言した。名人一代の制度が廃止されて、名人位獲得のリーグ戦が全八段によつて開始された。大阪からは木見八段が参加した。神田八段も中途から加はつた。が、ただひとり坂田は沈黙してゐる。坂田の実力はやがて棋界の謎となつてしまつた。隆盛期の棋界に、そこだけがぽつんとあいた穴のやうな感じであつた。
この穴を埋めることは、棋界に残された唯一の、と言はないまでも、かなり興味深い大きな問題である。自然大新聞社は殆んど一ツ残らず、坂田の対局を復活させようと、さまざまに交渉した。新聞社同志の虚々実々の駆引《かけひ》きは勿論である。けれど、坂田と東京方棋士乃至将棋大成会との間にわだかまる感情問題、面目問題はかなりに深刻である。大成会内部の意見を纏《まと》めるのさへ、容易ではなかつた。おまけに肝腎の坂田自身がお話にならぬ難物であつた。
たいていの新聞社はこの坂田の口説《くど》き落としだけで参つてしまつたのだ。
「銀が泣いてゐる。」といふ人である。――ああ、悪い銀を打ちました、進むに進めず、引くに引かれず、ああ、ほんまにえらい所へ打たれてしもたと銀が泣いてゐる。銀が坂田の心になつて泣いてゐるといふのだ。坂田にとつては、駒の一つ一つが自分の心であつた。さうして、将棋盤のほかには心の場所がないのだ。盤が人生のすべてであつた。将棋のほかには何物もなく、何物も考へられない人であつた。無学で、新聞も読めない、交際も出来ない。それ故、世間並の常識で向つても、駄目であつた。対局の交渉を受けて、
「そんならひとつ盤に相談しときまひよ。」といふ詞は伊達《だて》ではない。それを聴いては、もうどんな道理を持つて行つても空《むな》しかつた。交渉に行つた記者はかんかんになつて引き下つた。
名人気質などといふ形容では生ぬるい。将棋のほかには常識も理論もない人、――といふだけでも相当難物だが、しかもその将棋たるや、第一手に角頭の歩をつくといふ常識外れの、理論を無視したところが身上の人である。あれやこれやで、十六年間あらゆる新聞社が彼を引きださうとして失敗したのも、無理はなかつた。それを、読売新聞社が十個年間、春秋二回づつ根気よく攻め続けて、到頭口説き落したのである。
十六年振りの対局といふだけでも、はや催し物としての価値は十分である。おまけに相手は当代の花形棋士、木村・花田両八段である。この二人は現に続行中の名人位獲得戦で第一、二位の成績ををさめ、名人位は十中八九この二人の間で争はれるだらうといふ情勢であつた。もし、この二人が坂田に敗れるとすれば、折角争ひ獲《と》つた名人位も有名無実なものとなつてしまふだらう。つまりは、坂田対両八段の対局は名人位の鼎《かなへ》の軽重を問ふものであつた。花田・木村としては負けるに負けられぬところであつた。一方、坂田にしても、十六年間の沈黙を破つて、いはゆる坂田将棋の真価をはじめて世に問ふ対局である。東京方への意地もあらう。一生一代の棋戦と言つても、あながちに主催新聞社の宣伝ばかりではなかつた。
「十六年間、一切の対局から遠ざかつてましたけど、その間一日として研究をせん日はおまへなんだ。ま、坂田の将棋を見とくなはれ。」と戦前豪語した手前でも負けられぬ将棋である。六十八歳の老人とは思へぬこの強い詞は、無論勝つ自信をほのめかした詞であらう。が、ひとつにはそれは、木村・花田を選手とする近代将棋に対して、坂田がいかに奇想天外の将棋を見せるか、見とくなはれといふ意味も含んでゐた。大衆はこの詞に唸つた。
ともかく、昭和の大棋戦であつた。持時間からして各自三十時間づつ、七日間で指し終るといふ物々しさである。名人位獲得戦でさへも、持時間は十三時間づつ、二日で勝負をつけてゐる。対局場も一番勝負二局のうち、最初の一局の対木村戦は、とくに京都南禅寺の書院がえらばれて、戦前下見をした坂田が、
「勿体《もつたい》ないこつちや、勿体ないこつちや、これも将棋を指すおかげだす。」と言つたといふくらゐ、総|檜木《ひのき》作りの木の香《か》も新しい立派な場所であつた。
けれども、私も京都に永らく居たゆゑ知つてゐるが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えといふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚《た》かれ、なほ左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個づつ用意された。
それを、六十八歳の坂田は、
「火鉢にあたるやうな暢気《のんき》な対局やおまへん。」と言つて、しりぞけたのである。このことを私は想ひ出したのだ。何故とくに想ひだしたのだらうか。
木村には附添ひはなかつたが、坂田には玉江といふ令嬢が介添役として大阪から同行して来てゐた。妻に死なれたあとずつとやもめ暮しの父の身の廻りのことを、一切やつて来たといふひとである。対局中の七日間、両棋士はずつと南禅寺に罐詰めといふ約束であつた。ところが、坂田は老齢の上に、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁《とつ》ぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあつた。
「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛《つろ》うてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考へがあつて、来て貰《もろ》たんやぜ。わいはお前らの父親や言ふもんの、何ひとつ残してやる財産いふもんがない。せめて、お父つあんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたつた一つの遺産やさかい……」
一手六時間といふまるで乾いた雑巾《ざふきん》から血を絞り出すやうな、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になつてしまつたといふ玉江に、坂田はこんな風に言つた。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかつたのではなからうか。細君の代りにせめて娘にでもと思つたのではなからうか。
それと言ふのも、昔は現在と違つて、棋士の生活は恵まれてゐない。ことに修業中は随分坂田は妻子に苦労を掛けた。明治三年堺市外舳松村の百姓の長男として生れ、十三歳より将棋に志し、明治三十九年には関根八段より五段を許されて漸く一人前の棋士になつたが、それまでの永い歳月、いや、その頃でさへ、坂田には食ふや呑まずの暮しが続いてゐたのである。自分は将棋さへ指して居れば、食ふ物がなうても、ま、極楽やけれど、細君や子供たちはさうはいかず、しよつちゆう泣き言を聞かされた。その都度《たんび》に、
「わいは将棋やめてしもたら、生きてる甲斐《かひ》がない。将棋さすのんがそのくらゐ気に入らなんだら、出て行つたらええやろ。どうせ困るちふことは初めから判つてるこつちや。そやから、子供が一人の時、今のうちに出て行けと、あれほど言うたやないか。」と言つて叱りつけてゐたが、ある夜掃つて見ると、誰もゐない。家の中ががらんと洞《ほこら》のやうに、しーんとして真暗だ。をかしいなと思ひ、お櫃《ひつ》の蓋を取つて見ると、中は空つぽだつた。鍋の中を覗《のぞ》くと、水ばかりじやぶじやぶしてゐる。急にはつといやな予感がした。暗がりの中で腑抜《ふぬ》けたやうになつてぼんやり坐つてゐると、それからどのくらゐ時が経《た》つたらうか、母子四人が乞食のやうな恰好《かつこう》でしよんぼり帰つて来た。ああ、助かつたと、ほつとして、
「どこイ行つて来たんや、こんな遅《おそ》まで……」と訊くと、
「死に場所探しに行て来ましてん。……」
高利貸には責めたてられるし、食ふ物はなし、亭主は相変らず将棋を指しに出歩いて、銭をこしらへようとはしないし、いつそ死んだ方がましやと思ひ、家を出てうろうろ死に場所を探してゐると、背中におぶつてゐた男の子が、お父つちやん、お父つちやんと父親を慕うて泣いたので、死に切れずに戻つて来たと言ふ。
「…………」涙がこぼれて、ああ、有難いこつちや、血なりやこそこんなむごい父親でも、お父つちやんと呼んで想ひ出してくれたのかと、また涙がこぼれて、よつぽど将棋をやめようと思つたが、けれど坂田は出来なんだ。そんな亭主を持ち、細君は死ぬまで将棋を呪《のろ》うて来たが、けれど十年前いよいよ息を引き取るといふ時「あんたは将棋がいのちやさかい、まかり間違うても阿呆な将棋は指しなはんなや
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