。」と言つた。この詞にはげまされて十年、そしていま将棋指しとしての一生を賭けた将棋を指さうとして、坂田のたつた一つの心残りは、わいもこんな将棋指しになつたぜと細君に言つてきかせられないことではなからうか。細君にその将棋を見て貰へないことではなからうか。
 して見れば、対木村の一戦は坂田にとつては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当つてゐられないのは、当然であつたらう。――さう思へば、坂田のあの詞もにはかに重みが加はつて、悲壮である。ところが対局がはじまつて三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかへこんでゐる、これはなんとしたことであらうか。
 観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に薦《すす》めたのか、それとも、強いことを言つてゐたけれど、さすがに底冷える寒さにたまりかねて、自分から火鉢がほしいと言ひだしたのであらうか。「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」と自分から強く言ひだした詞を、うつかり忘れてしまふくらゐ耄碌《まうろく》してゐたのか。
 あるひはまた、火鉢にもあたるまいといふのは、かへつて勝負にこだはり過ぎてゐるのではないかと、思ひ直したのかも知れない。かねがね坂田はよく「栓ぬき瓢箪《へうたん》」のやうな気持で指さんとあかんと言つてゐる。
 ある時、上京するために大阪駅のプラットホームまで来ると、雑閙《ざつたう》のなかに一人の妙な男が立つてゐた。乗り降りの客が忙しく動いてゐる中に、ひとり懐手をしてぽかんと突つ立つてゐるのだ。汽笛が鳴り、汽車が動きだしても、素知らぬ顔で、気抜けしたやうにぱくんと口をあけて、栓ぬき瓢箪みたいな恰好で空を見上げたまま、プラットホームにひとり残されてゐる。なんや、けつたいな奴ぢやな、あいつ阿呆かいなとその時は思つたが、あとで自分の将棋が悪くなり、気持が焦《あせ》りだすと、不思議にその男の姿を想ひ出すのだ。ぽかんと栓ぬき瓢箪のやうな恰好で突つ立つてゐる姿、丁度ゴム鞠《まり》の空気を抜いたふわりとした気持、何物にもとらはれぬ、何物にもさからはぬ態度、これを想ひ出すのである。余り眼前の勝負に焦りすぎてかんかんになり、余裕を失つてしもうては到底よい将棋は指せないぞ、栓ぬき瓢箪の気持で指さなあかんと、思ふと不思議に気持が落着く――といふのである。
 つまりは、火鉢のことにこだはつた時は、丁度、眼前の勝負にかんかんになり過ぎて、気持が焦りに浮き立つてゐた。そこに気がついて、これではいけないと、火鉢を要求したのではなからうか。
 けれど、こんな臆測はすべて私の思ひ過しだらう。観戦記録を見ると、対局開始の二月五日といふ日は、下見をした前日と打つてかはつて、京にめづらしいポカポカと暖かい日であつたといふ。それを読んで、私は簡単にすかされてしまつた。その人の弱みにつけこんで言へば、暖かいから火鉢を敬遠したまでのこと、それを「火鉢にあたるやうな……」云々と悲壮めかすのは芝居が過ぎる。あるひは、坂田自身が自分の気持に欺かれてゐたのだらうか。けれども私はかういふところに、かへつて坂田の好ましさを感ずる。寒くなつたら、あわてて前に言つた詞を取り消して火鉢をほしがつたのだらうと断定を下し、しかも私はそこにこの人の正直さをぢかに感じようと思ふのである。
 それはともかく、坂田が火鉢を要求した時には、はや栓ぬき瓢箪の気持を想ひ出す必要が来てゐたことは、事実である。その時にはつまり対局開始後三日目にはもう坂田の旗色は随分わるかつたのだ。対局が済んでから令嬢は観戦記者に、
「父は四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました。」と語つたといふが、四日目とは坂田が一日言ひそびれてゐただけのこと、実は三日目からもういけなかつたことは、坂田自身でも判《わか》つてゐたのではなからうか。が、敢て三日目といはなくとも、勝負ははや戦ふ前についてゐたのかも知れない。もつとも、かういふのは何も「勝敗は指さぬうちから決つてます。」といふ彼の日頃の持論をとりあげて言ふのではない。いふならば、坂田は戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と言つた瞬間に、もう負けてしまつたのではなからうか。
 対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。
 木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。
 駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするやうな、平凡の手はもう指せるものかといふ気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見てをれ、あつといふやうな奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に憑《つ》かれて、坂田はふと眼を窓外にそらした。南天の実が庭に赤い。山清水が引かれてゐて、水仙の一株が白い根を洗はれ、そこへ冬の落日が射してゐる。
 十二分経つた。坂田の眼は再び盤の上に戻つた。さうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のやうな特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすつと盤の右の端の方へ伸ばした。
 その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思つた。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛つた。さうして、音もなくすーつと九四歩と突き進めて、ぢつと盤の上を見つめてゐた。駒のすれる音もせぬしづかな指し方であつた。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思へぬしづけさだつた。
 普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を敲《たた》きつける人がおますけど、あらかなひまへん。音を立てるちふのは、その人の将棋がまだ本物になつてん証拠だす。ほんたうの将棋いふもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切つてしもて、自分いふもんが魂の脱け殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言ふ風になつてしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残つてる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘蛛《くも》の糸よりまだ細い糸が出まつしやろ。その細い糸の上に人間が立つてるちふやうな将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸ひこまれてしまふちふと、細い糸の上にも立てます――さういふ将棋でないとほんたうの将棋とは言へまへん。さういふ将棋になりますちふと、もう打つ駒に音が出て来る筈《はず》がおまへん。」
 ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。
 九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。
 木村はあつと思つた。なるほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。
「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。
 木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。
 いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋|倶楽部《くらぶ》へ、浮かぬ表情で通つてゐた。地下室特有の重く澱《よど》んだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかつたが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかつた。
 察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに蠢《うごめ》いてゐるひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想ひ出したことがあるが、ほんたうにその頃の私の生活は、耳かきですくふほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであつた。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちよろちよろ焼かれてゐたのである。
 さうした私を僅《わづ》かに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢《てあか》と脂で黝《くろず》んでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のやうな青春を失つた病人だとか、さういふ連中が集まるのにふさはしかつた。私はその中にまじつて、こはれ掛つた椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のやうに窮地に陥《お》ちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しよんぼり悲しんでゐたのだつた。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげてゐると、いやな熱が赤く来て、私はもうぐつたりとして、駒を投げ出す、――そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。
 その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで舐《な》めんばかりにして眺め「雌伏《しふく》十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ。」といふ見出しの文句を、誇張した言ひ方だとも思はなかつた。私は眼がぱつと明るくなつたやうな気がして、
「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して呟《つぶや》き、初めて感動といふものを知つたのである。私は九四歩つきといふ一手のもつ青春に、むしろ恍惚《くわうこつ》としてしまつたのだ。
 私のこの時の幸福感は、かつて暗澹《あんたん》たる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。私の将棋の素人であることが、かへつて良かつた。木村はこの九四歩にどう答へるだらうか、九六歩と同じく端の歩を突いて受けるか。それとも一六歩と別の端の歩を突くだらうかなどと、しきりに想像をめぐらし、翌日の新聞を待ち焦れた。六十八歳の老齢で、九四歩などといふ天馬の如き溌剌《はつらつ》とした若々しい奇手を生み出す坂田の青春に、私はぴしやりと鞭打たれたやうな気がし、坂田のこの態度を自分の未来に擬したく思ひながら、その新聞を見ることが、日日|愉《たのし》みとなつたのである。けれど、私にとつては何日間かの幸福であつたこの手は、坂田にとつて幸福な手であらうか。
 素人考へでいへば、局面にもあるだらうが、まづ端の歩を突く時は相手に手抜きをされる惧《おそ》れがある。いはば、手損になり易いのだ。してみれば、後手の坂田は中盤なら知らず、まづはじめに九四歩と端を突いたことによつて、そして案の定相手の木村に手抜きをされたことによつて二手損をしてゐるわけである。けれど、存外これが坂田の思ひであつたのかも知れない。はじめにぼんやり力を抜いて置いて、敵に無理攻めさせて、その隙に反撃を加へるといふ覘《ねら》ひであつたかも知れない。最初の一手で、はや自分の将棋を栓ぬき瓢箪のやうなぼんやりしたものにして置かうと
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