、何かと他人に任せられぬ世話の掛る人である。人との応対は勿論、封じ手の文字を書くことさへ出来ない。食事も令嬢の手料理でなくてはかなはぬのだ。そこで、対局中玉江といふ令嬢が附きつ切りで、坂田の世話をすることになつたのであるが、ひとつには坂田がこのひとを連れて来たのは、嫁《とつ》ぎもせず自分の面倒を見て来てくれた娘に、自分の将棋を見せるためでもあつた。
「お前もお父つあんが苦しんでるのんを、傍から見てるのんは辛《つろ》うてどんならんやろけど、言や言うもんの、わいにもわいの考へがあつて、来て貰《もろ》たんやぜ。わいはお前らの父親や言ふもんの、何ひとつ残してやる財産いふもんがない。せめて、お父つあんがどれだけ苦労して一生懸命に将棋指してるか、そこをよう見といてや。これがわいのたつた一つの遺産やさかい……」
一手六時間といふまるで乾いた雑巾《ざふきん》から血を絞り出すやうな、父の苦しい長考を見て、到頭対局場に居たたまれず、隣りの部屋へ逃げ出した挙句、病気になつてしまつたといふ玉江に、坂田はこんな風に言つた。けれど、本当は坂田は死んだ細君にその将棋を見せてやりたかつたのではなからうか。細君の代り
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