る時、うしろからさした傘のしづくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にはかに胸が熱くなつた。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想ひがした。
 坂田は不景気な顔で何やらぽそぽそ呟いてゐたが、自動車《くるま》が急にカーヴした拍子に、
「あ、そや、そや。……」と叫んだ。
「えツ、何だす?」玉江は俄《には》かに生々として来た父の顔を見た。
「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想ひついたんや。」と、坂田は言はうとしたが、何故か黙つてしまつた。さうして、その想ひつきのしびれるやうな幸福感に暫らく揺られてゐた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だつたとは思はなかつたのである。さうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだらうとは、夢にも思はなかつたのである。
 雨は急にはげしくなつて来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いてゐた。
[#地から1字上げ](昭和十八年八月)



底本:「現代日本文學
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