四日頃から、私の方が悪い言うて、諦めさせました。」と語つたといふが、四日目とは坂田が一日言ひそびれてゐただけのこと、実は三日目からもういけなかつたことは、坂田自身でも判《わか》つてゐたのではなからうか。が、敢て三日目といはなくとも、勝負ははや戦ふ前についてゐたのかも知れない。もつとも、かういふのは何も「勝敗は指さぬうちから決つてます。」といふ彼の日頃の持論をとりあげて言ふのではない。いふならば、坂田は戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と言つた瞬間に、もう負けてしまつたのではなからうか。
 対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。
 木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。
 駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三
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