ことを、はじめから後悔していたのだ。もぞもぞと腰を浮かせていたが、やがて思い切って、坂田は立ち上った。
「お先に失礼します」
 伝票を掴んでいた。
「ああそらいかん」
 松本はあわてて手を押えたが、坂田は振り切って、
「これはわてに払わせとくなはれ」
 と、言った。そして、勘定台《カウンター》の方へふらふらと行き、黒い皮の大きな財布から十銭白銅十枚出した。一枚多いというのを、むっとした顔で、
「チップや」
 それで、その夜の収入はすっかり消えてしまった。
「そんなら、いずれまた」
 もう一度松本に挨拶し、それからそこのお内儀に、
「えらいおやかまっさんでした。済んまへん」
 と悲しいほどていねいにお辞儀して、坂田は出て行った。松本は追いかけて、
「君さっき大阪へ帰りたいと言うてたな。大阪で働くいう気いがあるのんやったら、僕とこでなにしてもええぜ。遠慮なしに言うてや」
 と言って、傘の中の手へこっそり名刺を握らせた。女の前を避けてそうしたのは、坂田に恥をかかすまいという心遣いからだと、松本は咄嗟に自分を甘やかして、わざと雪で顔を濡らせていた。が、実は坂田を伴って来たのは、女たちの前で坂田
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