体にボール紙の鎧をつけ、兜を被って、如何にも虎退治らしい装《いで》立だった。竹藪が装置してあった。
「なんだ、君が虎を退治るのか。見せないのか?」
 とあきれて訊くと、
「実はこれは僕の発案なんだ。実物の人間が立っているところが味噌なんだが、かわり番に立つことにして、いよいよ僕の番になって見ると、とてもこんな恰好で立てやしないんだ。が、発案した以上、立たぬ訳にはいかないじゃないか。それで立つことは立ったが、ドアを閉めて誰もはいれぬようにしてやったんだ。寒いよ。煙草あるか」
 豹一は吹き出してしまった。こんな痩せてひょろひょろした虎退治があろうかと、朝からの不機嫌が消し飛んでしまった。煙草を渡すと赤井は、
「封を切ってないね」
 豹一は幾らか恥しかった。ただなんとなく持っているだけで、吸う気になれなかったのである。照れかくしに、
「虎はどうした?」と言うと、
「デコが間に合わなかったんで、立っている人間がしばしばうおーッと唸る仕掛になっているんだ。妙なものを発案したもんだ」と苦が笑いをした。交替のものが来るまで動けないと言うので、豹一は、
「じゃ、また後で」
 とそこを出た。寄宿舎を出ると、豹一は新築校舎の二階にある自分の教室へ行き、グラウンドに面した窓から仮装行列を見た。丁度豹一のクラスである文科一年甲組の仮装行列がはじまる前で、誰も教室にはいなかった。豹一は自分の仮装行列の提案に反対されたので、参加しなかったのだ。彼はクラスの者が仮装用の費用に出す一円ずつの金を集めれば五十円になる。その金でパンを買って、皆んなでグラウンドへ担いで行き、グラウンドを一周してから代表者がそのパンを養老院へ持って行って寄附することにすれば、下手な仮装よりもぴりッと利いて面白く有意義ではないだろうかと、半《なかば》なにか偽善者のように思われやしないかと心配しながら、一人一件という義務通り提案したのである。反対されたのは構わなかったが、その時教授の息子である級長の根室が、京都人らしい陰険な眼を眼鏡の奥にぎょろりと光らせながら、ねちねちとした口調で、「毛利君の案は不穏当だと思う。毛利君は何か意味があってそんな提案をしたのか知らないが、そのためわれわれのクラスが学校当局からね[#「ね」に傍点]らまれるようになったら、迷惑である」とかなり感情的な反対意見を述べたのが、癪にさわったからだった。
(ね[#「ね」に傍点]らまれるとはなんだ! 俺を危険人物だと思ってやがる!)
 根室の反対意見にかなり賛成の声が出て、何れも京都に家をもった生徒ばかりだった。結局仮装は「酋長の娘」という無意味な裸ダンスに決った。豹一は立って、不参加を表明した。赤井も、「裸ダンスの方が不穏当ではないか」と反対意見を述べて不参加と決ったのである。
 窓の外を見ていると、教室へぬっと黒い顔を出した男があった。野崎だった。
「君、仮装に出ないの?」と豹一が言うと、野崎は眼鏡の奥で眼をパチパチさせて、
「俺は出えへんのや。練習せえへんかってん」と未だ大阪訛の抜け切らぬ口調で言って、黒い顔をちょっと赧くした。ああ、そうかと豹一は思い当った。野崎はひどく忘れっぽい男で、教室でもたびたび教科書を忘れ、隣の豹一の机へ自分の机を寄せて、「ちょっと見せてんか」とこれが三日に一度である。その都度、気の毒そうに、「君も大阪やろ? 大阪へ帰るんやったらわいの定期貸したるぜ」というのだった。彼は毎日大阪から通学していたのである。
「君はどうするんだ? 定期無しで……?」と訊くと、
「わいは京都で待ってるさかい、大阪へ着いたら直ぐ定期を速達で送ってくれたらええのや」
 その間待っているつもりなのかと、豹一は野崎の底抜けのお人善しに驚いてしまった。彼が忘れるのは教科書だけでなく、例えば自然科学の時間などに、べつの合併教室へ移動するのを忘れ、ぽかんとひとり教室に坐っていることがよくある。独逸語の訳読をやらされるときなど、いきなり三頁位先の方を読み出して、皆んなを面くらわせることもある。ラグビー部へ一週間ほどはいっていたが、練習の時間を故意にすっぽかすと思われて、部を除名されたということだ。だから、仮装行列の練習時間もうっかり忘れたのであろうと、豹一は思ったのである。何れにしても、不参加者が一人増えたわけだと喜んでいると、野崎は、
「俺は色が黒いやろ。しゃから、色が黒くても南洋じゃ美人というあの歌がきらいやねん」と言い、顎をなでて、
「今日一ぺん化粧《やつ》してこましたろ思て、髭剃ったんやけど、あとからなんぞつけるのん忘れたよって、ひりひりして痛いわ」と言うのだった。豹一はこんなことが平気で言える野崎がにわかに好きになった。その大阪弁も好きだった。自分がわざと標準語まがいの学生言葉を使っているのが恥しかった。なにか野崎の言葉を聴いていると、しょっちゅうなにかに苛立っている自分が恥しくなり、ふっと和かな空気の中に浸ってしまうのだった。
 やがて、「酋長の娘」の仮装行列がはじまった。他愛のない踊だった。
「下手だなあ」と豹一が言うと、野崎は、
「そうや、下手やなあ」
「全部の中でいちばん下手だろう」
「そや、そや。いちばん下手や」
「酋長の娘」が済み、あと五つ六つの仮装行列があってから、寮生の嵐踊《ストーム》が行われた。百人ほどの寮生はいずれも赤い褌一つの裸で、鐘や金盥や太鼓をそれぞれ持っていた。群衆の垣を押しのけて、その行列がぞろぞろ寮から出て来るのを見た途端、豹一はわざとらしく眼をそむけた。彼等がいずれも見物の視線に芸もなくやに下って、蛮カラ振りの効果を見物の物珍しそうな眼つきで計算していると思ったからである。
(あの仮面《めん》のような笑い方はなんだ? 彼等は観衆の拍手が必要なのだ!)
 ここでも豹一の批評は苛酷だった。しかも、豹一こそこれまで観衆の拍手を必要として来たのではないか。そういう自分には気がつかなかった。
 ――デカンショ、デカンショと半年暮す、ヨイヨイ……。
 嵐踊《ストーム》がはじまったとき、赤井が教室へはいって来た。
「君は……?」出なかったのかと訊くと、
「風邪ひくとつまらんからね。それにこんな痩せた体をさらけ出せるか」と赤井は言った。
 やがて、仮装行列が全部済み、教授の投票による成績が発表された。「酋長の娘」はビリから二番目の成績だった。ざまあ見ろと思った。
 校長の閉会の挨拶がはじまった時は、校庭はもはや黄昏れていた。「紅燃ゆる」を歌って散会したあと、応援団長の推戴式があった。校庭に篝火をたき、夕闇の中で酒樽を抜いて、応援歌を呶鳴り、新しい応援団長は壇上に立つと、一高に負けるなと悲痛な演説をやって、心あるものは泣くのである。応援団委員は参加人数のかり集めに躍起となった。記念祭がすむと、生徒たちは興奮しながら町へあこがれ出て行く、その足を推戴式のため食い止めなければならない。近頃応援団というものに冷淡になった功利主義者や、事なかれ主義者が多くて困るのである。応援団委員の希望、そして足を食止め易いのは新入生たちであった。豹一、赤井、野崎の三人はまごまごしていたので、寄宿舎の横の小門で掴った。豹一の子供じみた頭や、むやみに上着の袖の長い如何にも新入生らしい服装をなめて掛かったのか、委員は、
「推戴式に出ないと、承知せんぞ!」と威喝した。豹一の自尊心にその命令的な態度が突き刺った。
「いやだ! 三高の伝統は自由だとあんた達が日頃言うじゃないか。出たくないものを無理に止める法はないだろう?」
 実は最近豹一もかり出されて、野球の練習時間中、意味なく太鼓を敲かされたことがあって、応援団には愛想を尽かしていたのである。しかし、その言葉は上級生に対しては少し礼を失していた。
「生意気言うと撲るぞ!」
「撲れ!」
 撲られた。撲った男がしげしげと鎰《かぎ》屋へ通うということをあとで知った時、豹一の眼は異様に輝いた。
 間もなく豹一が鎰《かぎ》屋お駒と散歩しているという噂が立った。

      六

 豹一とお駒の散歩は、赤井に言わせると、飯事《ままごと》に過ぎなかった。つまり豹一《あいつ》は臆病なのだと、簡単に赤井は判断を下した。そんな赤井の肚がわかれば、豹一も改めてなにかの手段を取ったところかも知れぬが、それにしても豹一は余りに恋愛を知らな過ぎた。お駒の方はまだしも、私は一人娘でこの人も一人息子やわ、とこんなことを漠然と考えていた。ところが豹一は真似るべき恋愛のモデルを知らないのである。知っていれば、見栄坊の彼のことだから、そのモデルに従って颯爽と行動することは面白いと思ったかも知れない。それもしかし、彼の記憶の中に根強くはびこっている或る種の嫌悪は、彼が足を踏み外して取乱すことだけは食い止めたに違いないが。つまり彼は流行外れの男だったのである。どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼には出来なかったのだ。だから愛情にかられるということが必要であった。ところが彼は愛情の前で奇妙な困惑を感ずる男だった。人に愛された経験がないのである。自分は人に愛される覚えはないと思い込んでいるのである。
 豹一は何のために散歩しているのかわからなかった。元来彼は何ごとにつけても、自尊心の満足ということ以外には意味をつけることは出来ず、お駒との散歩もむろんそこから出たものだったが、たいした効果はなかったのである。一緒に歩いているところを誰かに見て貰えば、それで自尊心が満足されると思っていたところ、見られたために却って自尊心が傷ついてしまった。
 ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。豹一は瞬間緊張して、桑部の眼の色の中に効果を計算しようとした。ところが桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを泛べて通り過ぎてしまった。少しも羨望らしい表情はなかった。桑部は自転車に乗っていたから、案外軽い気持で、二人の顔が見られたのである。呼鈴を鳴らして走って行った桑部のうしろ姿を見て、豹一は桑部はたしかに俺を嘲笑したと思った。
(お駒の顔を見て、なんだあんな女という眼をしやがった!)
 豹一はお駒の横顔をじろりと見た。そんな瞬間どんな女でも器量が下って見えるのである。お駒は美しい方だったが、鎰《かぎ》屋の二階で三高生にじろじろ見られている時ほどの美しさは、いま豹一には見えなかった。それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽《ひ》が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。おまけにじっと豹一に横顔を瞶められたので、嬉しさの余り醜いまでにどぎまぎして赧くなっていた。豹一はお駒を醜いと思い込んでしまった。応援団員たちが熱中しているという肝腎のことは咄嗟に泛ばなかった。桑部の視線ばかりが気になっていたのである。それに彼は、はじめて赤井と鎰《かぎ》屋へ行った晩の、お駒の表情や仕草に良い印象をうけていなかったのだ。
(こんな醜い女と歩いているのが、どうやら俺らしいではないか!)
 そう思うと、豹一は一ぺんにお駒と歩くのがいやになった。しかし、そういう散歩はずるずると夏休み前まで続いた。案外気の弱い男だったから、むげにお駒をしりぞけることが出来なかったのである。
 二学期が来て、高等学校の生徒がそろそろ鎰屋へ顔を見せる頃になっても、豹一の姿だけが現れないとさすがに分ると、お駒はぽかんとしてしまった。自分の顔がだんだん醜い表情を取り出したので、あわてて化粧をしたりした。
(男というものは二《ふた》月も会わないでいると、もうそのひとを忘れてしまうのだろうか?)こんなことを慰めみたいに考えた。が、豹一のことはなぜか恨む気持になれなかった。(あの人は前途ある高等学校の学生さんだもの、私らを相手にしないのは当り前だ)
 妙なところで、豹一は三高であることが役立ったのである。豹一は二ヵ月の休暇を利用して、やっとお駒と離れてしまったということに、少し自責めいたものを感じていた。お
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