駒を自尊心のだしに使ったということが、済まない気がしていた。豹一はただ、
(俺の様にあっさりと女と別れられる奴はいないだろう。皆んな未練たらしくめそめそしてやがる!)と周囲を見廻してみて、やっと心を慰めた。
 例えば、赤井は此の半年間、一人の女に通い続けているではないか。そのため赤井は寮費を滞納して、寄宿舎を追い出され、鹿ヶ谷の下宿へ移ったが、下宿料が後払いだったのに油断して、家から送って来た金を全部その女に注ぎ込んでしまった。月末になって困っているのを見かねて、野崎が自分の授業料を滞納させて立て替えてやった。ところが野崎はそのことを機縁として大阪からの通学を止めて、赤井と同じ下宿に移った。おまけに気の良い野崎は赤井の誘いを断り切れず、ある夜赤井と一緒に宮川町で泊ってしまった。
「これが青春なんだ。汚いところに美しいものを見つけるのが本当の青春なんだ」赤井は良い加減な青春説を振りまわすと、野崎は納得したのかしないのか、気の弱そうな声で、
「うん、そや、青春やな」と黒い顔でうなずくのだった。赤井のむきになって喋っている言葉の意味がわからないのを、赤井に済まなく思っているらしかった。
 野崎は赤井や豹一と一緒に四条通へ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。宮川町が見える「八尾政」へビールをのみにはいったりすると、もうそれは決定的なものになったという顔をするのである。そしてそのための資金を如何にして作るべきかをしきりに考えるのである。京都にある二軒の親戚からはもうこれ以上借りられないぐらい借金してしまった。質に置くものもない。そんな結論に到達すると、彼は赤井の青春のために済まなくなって来る。そしてまた、そのような青春に背中を向けて今夜も一人で帰って行くだろう豹一に対しても、何か済まない気がするのだ。「八尾政」を出ると、はじめて野崎はおずおずと口を切るのだった。
「赤井、金《ゲル》なんとかしようか?」
「うん、そうだな。しかし、べつに今夜は――」そう赤井が言うと、野崎はなにがなんだか分らなくなって来るのだ。赤井の青春説を改めて考え直すのだ。
「君さえ構《かめ》へんかったら、なんとかするぜ」
「当《あて》あるのか?」
 そう言われると、野崎ははじめて釈然として来て、嬉しそうな顔をするのだ。
「あるぜ」
「そうか。そんなら僕どこで待っていようか?」
「ヴィクターで待っててくれ」野崎はなにか責任の重さを痛感したような顔で、夜の町を金策に奔走するのだった。
 ある日、野崎は突然行方不明になった。その前の晩野崎と赤井と一緒に宮川町で泊ったのだが、金無しで泊ったので、野崎は赤井を人質にして金策に出掛けた。が、何時間経っても赤井のところへ帰って来なかった。そこの家の女中が学校へ豹一を訪ねて来て、金をもって帰り、それでやっと赤井は人質から解放されたが、野崎はそれから三日も下宿へ帰って来なかった。二人で探して見たが、見当がつかなかった。三日目の朝、学校へ行くと、野崎がしょんぼり教室に坐っていた。授業が始まる前だったので、直ぐ呼び出して、近衛通の喫茶店へはいり、事情を訊いて見ると、こうだった。
 赤井を人質に残して、出たものの、野崎には金策の当がなかった。三軒ある親戚も一方で借りた金を一方へ返し、そこでまた借りた金で一方へ返ししていたから、随分借金が嵩んでいた。五円返したその場で十円借りるというつもりのヤリ口も、その五円が手にはいらぬ限り不可能だった。下宿で借りるということも考えられたが、それも下宿代が二人分滞っている上に、まだいくらか現金を借りていたから、到底実行出来そうもなかった。おまけに昨夜外泊した顔をぬけぬけと出して借金も出来なかった。豹一なら持っているかも知れないと思ったが、行く前の顔はともかく、宮川町からの帰りの顔をどうして会わされようか。眼が充血し、黒い皮膚がいくらか蒼ざめて、ねっとりと脂の浮いている顔を、豹一の美しい顔の前へ出すのは恥じられた。質草もなかった。大阪まで京阪で帰って、家で貰って直ぐ引きかえして来ようかと思ったが、材木屋をしている父がこの頃糖尿病で臥込んでいることを想い出すと帰れなかった。ひょっとして父の痩せた顔を見て、いきなり日頃の行状を告白したくなったり、また母親から貰って便所で泣いたりしていると帰りが遅くなるやろと思った。当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。顔を見知らぬ三高生が一人擦れ違ったので、済まんけど、一銭貸してくれへんかと頼むと、妙な顔をして、無いぞオと断られた。わいはなんでこないに金が無いのやろ、泣いてこましたろかと、半分泣きかけていたのであった。――会いたいときはなかなか知った顔に会わんもんやなと、その時のことを想い出していると、急にホットケーキが食べたくなった。京極の真中で、財布をあけて勘定してみたら三十銭あった。「スター」へはいってホットケーキを食べた。そこを出て、京極通を三条へ出て、河原町通を四条の方へ引きかえした。四条河原町の手前にある小路を左へ折れて、「ヴィクター」喫茶店へはいった。薄暗いいちばん奥のボックスに坐って、そこの八重ちゃんと呼ぶ女の顔をなんとなく見ていた。八重ちゃんはいつもエプロンの袖から白い腕をにゅっと出して、それが生々しく魅力があった。三人いる女のなかで、彼女がいちばん目立っていそいそと立ち働いているのは、つまりそれだけ綺麗だと自覚している証拠なんだと、赤井がいつか言っていたのを想い出した拍子に、赤井の痩せた、線の細い顔が泛んだ。早く金を持って行ってやらぬと、赤井のことやから、余計勘定が嵩むようなことになるやろと、丁度鳴り出したベエートーヴェンの第五交響楽を深刻な顔で聴いた。なにか気持が落ち着かなかったが、しかしそこを出ても金策の当はないと思うと、半分やけみたいな気持で、交響楽が全部済んでしまうまで、じっと坐っていた。出ると、もう財布の中には一銭もなかった。長崎屋の前を通ると、にわかにはいってカステラを食べたくなった。番茶を貰って、日当りの良い窓側で啜りながら、四条通をぼんやりながめていたら、良いやろなと思った。そのために要る十二銭の金が無いことが、嘘みたいに悲しく、腹立たしかった。再び京極を抜け、寺町通の古本屋を軒並み覗いて廻った。「京屋」という古本屋で、赤井が欲しがっていたコクトウの「雄※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]とアルルカン」を見つけ、記憶えて置こうと、値段など訊いた。いまここに十五円の金があれば、その本を赤井のところへ持って行ってやり、そして、一緒に「ヴィクター」へ行ってその本を見ながら、赤井の音楽論が聴かれるのやがと思った。御所の芝生へごろりと寝転んで改めて金をつくる方法を思案した。が、いつかうとうとと居眠りをした。わいはいま寝てる。昨夜の寝不足がたたって、えらい疲れて歯軋りして寝てる、そんなことを夢うつつに意識しながら、一時間ばかり眼をつむったり、人の跫音で眼を覚したりしていたが、いきなりこんな呑気なことをしてられへんと欠伸をして、立ち上った。芝生の露が紺ヘルのズボンを透して、べたっと尻にへばりつき、気持がわるかった。尻をぺたぺた敲きながら、御所を出ると、足は自然に学校の方へ向いた。丸太町の電車通りに添うて熊野神社まで来ると、大学の時計台が見えた。近衛町まで来ると、もう時計の文字がはっきり見え、既に午後一時過ぎだった。直き戻って来てやると赤井に言って来たのだが、もう三時間も経っていた。身を切られるような気がした。近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通へ出る細いごたごたした小路へはいって行った。そこに馴染の質屋があった。古着屋のような構えで、入口の陳列窓にいつか入質《いれ》て流した靴が陳列されていた。野崎はん、今日は何|入質《いれ》はるんどす?言われて考えてみたが、なかった。が、結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルとで二円五十銭貸してくれた。思い掛けず金がはいったのですっかり嬉しくなり、近衛通から電車で四条河原町まで行き、長崎屋の二階へ上って、カステラを食べた。なお、紅茶を飲んだ、祇園石段下で電車を乗りかえる時に買ったチェリーの箱が空になるまで、ぽかんとして坐っていた。午後二時半になった。京極で活動を見た。出ると、午後五時だった。もうあたりは黄昏の色だった。赤井は首長くして待ってるやろな、怒っとれへんやろかと、ふとそのことを思い出すと、泣き出したくなった。が、お前ももう二十歳やないかと、固くいましめて、涙だけは流さなかった。そして、もう今となっては金を持って行っても手遅れや、赤井に会わす顔もあらへん、金をこしらえても仕様があらへんと、こんな気楽なことをしょんぼり考えて、僅に心を慰めた。しかし何かに追い立てられるような気持だけは、重くるしくいつまでも去らなかった。浮かぬ顔をして、夜の町を逍遙い歩いた。まさか鹿ヶ谷の下宿へ寝れまいと思ったのである。赤井を人質に残して置いて、自分ひとりだけ呑気に下宿へ帰って寝ていられようか。喫茶店へ二回、うどん屋へ二回はいり、そこら辺当もなく、逍遙い歩いている内にだんだん夜が更けて来た。人通りが少くなり、心細くなった。七条内浜まで暗い道をとぼとぼ歩いて行って、木賃宿の割部屋へ泊った。これが赤井の言うデカダンスやと思ってみたり、もうわいは救いようのないほど堕落したと思ってみたり、赤井の顔を想い泛べてみたり、なかなか寝つかれなかった。文字通り枕を濡らす想いで夜が明けた。そして木賃宿を出ると、また一日中野良犬のように町を歩きまわっていた。放浪者を気取っていたが、気取るまでもなく、妙に薄汚く浮浪者じみて来たと思った。相かわらず、ぞおっとする想いで赤井の顔が泛んで来た。ひょっとしたら、赤井は無銭遊興で拘引されているのと違うやろかと思うと、もうへとへとになるまで歩きまわるのが義務のようだった。おかげで、京都の町の地理を随分覚え込んだ。薄汚い路地裏で、びっくりするほど色の白い綺麗な女を見て、ああえらい良えもんを見た、これが今日一日のわいの幸福やと呟いたりした。夜が更けると、また木賃宿に帰った。その夜はぐっすり眠れた。そして夜があけると、また歩きまわっていたのである。そして、三日経ったが、金が一銭も無くなると、死にたいほどの気持になり、木賃宿を出た足でふらふらと学校へ来て、授業が始まる一時間前から、ひとりしょんぼり教室に坐っていたのだった。……
 そんな詳しいことは分らなかったが、野崎が口下手に問われるまま返事した言葉から想像して、たぶんそんなことだろうと、見当がつくと赤井はもう言うべき言葉を知らなかった。心配しながら、且つぶりぶり怒りながら野崎を探し廻っていたことが阿呆らしく想い出された。
「君の放浪は実に君らしい青春だよ」と赤井は辛うじて青春説を口にしたが、しかし、肚の中では、
(つまりこいつは忘れっぽい、頼り無い男なんだ)と妙に諦めていた。
 だが、豹一は何か底知れぬ野崎の魅力に触れた想いで、にわかに友情が温って来た。
(俺はしょっちゅう自尊心の坐りどころを探して、苛立っているが
前へ 次へ
全34ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング