、野崎は珈琲一杯の中に胡座をかいてしまうことが出来る。何という違いだ! つまり俺の方がずっと浅ましい存在なんだ)
 そう思うようになったのは、豹一としてはかなりの進歩だった。豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。(実に同じく醜い緊張だ!)
 彼はもう首席になる決心を断念した。ところが、実のところ、彼は今のままでは進級も危いような状態だったのである。

      七

 校門をはいって直ぐ右手にある賢徳館という古い建物のなかで、及落決定の教授会議がひらかれた。三月の初めで、京都では未だ厳しい寒さだった。ストーヴをたいてもガランとした部屋のなかはなかなか暖まらず、誰かが小用に立つたびに、身を切るような比叡おろしがさっと部屋の中を走った。老年の教授達はズボンに手を突っ込んだまま、せわしく足踏みしていた。例年より冷え方がひどく、ことしは明治何年以来の寒さだと言うことだった。どうやらストーヴに故障があるらしかった。そんな寒い部屋のなかで、殆んど朝から夕方まで坐りずめで、教授も容易な辛抱ではなかった。そのせいか、会議は実にあっけなく早いスピードで進行して行った。毎年、一人の生徒の及落を決めるために、まる半日潰れてしまうようなことがあった。が、ことしは一人の生徒に十分も手間どるようなことはなかった。いちいちその生徒の一生の運命まで考えていたら、きりの無いところである。毎年懐疑的な教授も今日は点数という極めて合理的な決定法に絶対の信用を置いた。
 豹一、赤井、野崎の三人の及落決定も十分とは掛らなかった。三人一束に審議されて、簡単であった。欠席日数が三人とも規定を超過していると聴いて、さっさと小用に立った教授もあるくらいだった。おまけに、品行もわるく、成績不良だった。ことに、独逸語の成績がひどく悪かった。
「どうですな、Hさん」誰かが独逸語のH教授にそう訊いた。H教授が、「もう一年僕の講義を聴かしますかな」と言えば、もうそれきりなのである。
「いやあ、僕には意見がありませんよ。及落どちらでも結構ですな」H教授はそう言ってにやりと微笑った。
「三人とも落第ですな」
「ええ、三人とも――」H教授は嬉しそうにうなずいた。なにかしら満ち足りた気持だった。H教授は昨夜毛利豹一が自分を訪問して来たことをちらと想い出していたのである。
 書斎に通すなり、
「君、用件は何だね?」
「はあ」豹一はさすがにもじもじしていた。その赧くなっている顔をH教授はちょっと可愛いと思った。独逸に留学していた時、こんな顔をした中学生がビールの飲み競べをやっていた。こいつは余り飲めそうにもない。姉の結婚式で二、三杯盞をなめて、ふらふらになって泣き出す手合だろう。
「僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え」
「はあ、その点数のことなんですが」
「点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ」
「なりませんか? そうですか」豹一は思わず立ち上りそうになった。人に頭を下げるのがいやなのである。が、さすがに、これは思い止った。実は、朝から赤井、野崎らと手わけして悪い点を取りそうな教授を訪問しているのである。赤井は日頃H教授に睨まれているし、野崎はひどく成績が悪そうだし、三人のなかでは比較的成績のましだと思われる豹一がH教授訪問の役に当ったのである。その役を果さぬうちはやはり帰れなかった。
「実は赤井と野崎のことなんですが、先生の独逸語の成績がひどく悪いらしいのです。――二学期はわりに良く出来たんですが、一学期の点が悪いんです。他の科目は注意点を免れましたが、先生の点だけが、――独逸語で落第しそうなんです。なんとか及第点にしてやっていただけないでしょうか」
 考えていた言葉をやっとの想いで言って、H教授の顔を見上ると、H教授は薄気味わるく笑っていた。二学期の成績が良かったという豹一の言葉がおかしかったのである。二、三日前答案を採点していた時、H教授は三人の答案が一字一句違わないことを発見して、あきれてしまった。赤井と野崎が豹一の答案を写したに違いないと思った。三人の中では豹一がややましに出来るのだった。H教授は先ず豹一の点を零点にした。他の二人は一学期の点をそのままつけた。すると三人とも二学期を平均して落第点になった。豹一を零にしたのは、もし及落会議で問題になったら助け舟を出してやるつもりでいたからである。
 H教授はくつくつとこみ上げて来るのを我慢しながら、
「赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?」
「はあ」
「君はどうなんだ?」
「僕は……」大丈夫だというその顔がH教授にたまらなくおかしかった。たまりかねて、下を向き、膝の上の成績を仔細に見る真似をして、
「ところが、君の方の点がわるい」わざと渋い声で言うと、
「えッ?」案の定驚いた顔をした。
「赤井は三十八点、野崎は三十七点、君は三十六点だ。君がいちばん悪い」
 そう言ってやると、すごすごと帰って行ったそのことを、H教授は想い出したのである。手土産に三人の名前がはいっているのもおかしかった。H教授は三人の仲の良さにちょっと微笑ましいものを感じた。及第させるならば、三人とも及第させてやりたい、一人だけ欠けると可哀相だという気持だった。豹一が自分の点で落第しそうだったら助け舟を出して他の二人と一緒に及第させてやるか、それとも三人を落第させてやるか、どちらかだと思っていた。が、欠席日数超過で三人とも落第と決ったので、なにか満ち足りた気持がしたのである。
「毛利は出来る科目もあるが、彼は秀英塾だね」と誰かが言った。秀英塾の生徒は皆秀才だということになっていた。
「余っぽど、怠けたのだね、毛利は」誰かが答えた。
「すると、三人とも落第――?」
「異議なし」
 秀英塾では落第すると給費を中止するという規定を教授達はみな知っていた。が、誰も想い出さなかった。そうして三人の落第は簡単に決定した。
 教員室の壁に小さく貼出された紙を見て、落第だとわかると三人は赤井の発言で早速受持の教授を訪問することにした。下鴨にある教授の家の玄関で待っていると、教授が和服のまま出て来て、突っ立ったまま、
「どうもお気の毒だが、決ってしまったものは致方ない。僕も頑張るだけは頑張ってみたのだが、欠席日数があれではね」その癖その教授は彼等の落第を主張した一人だった。受持の教授が自分のクラスの生徒の落第を主張するのはおかしいと、眉をひそめた教授もあったくらいである。
 玄関での立ち話では、三人とも頼むべきこともろくに頼めなかった。阿呆らしい気持で早々に辞すと、足は自然に京極の方を向いた。途々、赤井はひとりで興奮していた。豹一はわりに平静な気持だった。落第と決れば秀英塾から追放されることは免れ得なかった。もう三高生活もこれでおさらばだと、彼ははじめから受持の教授を訪問する気持もなかったのであった。野崎はおかしい程悄気ていた。まるで泣き出さんばかりの顔をしていた。
 そんな野崎の気持は赤井や豹一にははっきりわかっていた。今度の落第は野崎に原因していると、言えば言えないこともなかった。野崎は三人の欠席日数をノートにつけていたのである。誰も野崎の計算を信じていた。だから野崎がもうあと三日休めるぞと言ったので、うかうか三日休むことにした。ところが、野崎の計算の間違いだとわかった。丁度その三日間だけ超過してしまったのである。そのほかに未だこんなこともあった。
 第一日目の試験が済むと、彼等は例によって京極へ出て、三条通の「リプトン」で翌日の試験の秘策を練った。その日の試験は独逸語で、これは豹一の答案を写して、どうにか落第点を免れたので、紅茶の味はうまかった。レモンの香が冬の日らしい匂いをぷんと漂わせて、彼等の寝不足の眼をうっとりと細めた。が、翌日の試験は歴史である。彼等は誰もノートを持っていなかった。勉強しようにも方法がなかった。歴史の教授は及落会議でも相当辛辣だということを赤井が言い出したので、三人とも憂欝になり、紅茶を三杯ものんだ。ところが野崎が同じ中学校出身の先輩に去年のノートを借りる手があると、良い智慧を出したので、もう歴史の試験は半分終ったのも同然だと、彼等は松竹座で映画を見た。松竹座を出ると、野崎はノートを借りに行くことになった。未だそこら辺をぶらぶらしていることに未練のある赤井は時間を打ち合せて、野崎と「ヴィクター」で落ち合い、一緒に下宿へ帰ることにし、豹一は一足先に帰り、良い頃を見計って、赤井の下宿で火をおこしながら待つ。そう決めて別れた。
 豹一は約束の時間より早く赤井の下宿へ出掛けて、しきりに火鉢へ新聞紙をくべていたが、炭は少しも赤くならなかった。部屋の中がさむざむとして、煙が恥しいぐらい立ちこめた。下宿の人に言って、火種を貰うなど、出来ぬ質だった。新聞紙もくべ尽してしまい、何という俺は不器用な男だと、げっそりした。ふと、煙草の吸口がよいと思い、くべてみると、蝋があるのでよく燃えた。そこをすかさず、しきりに火鉢の中へ顔を突っ込んで吹いていると、漸くおこって来た。ちょっと一時間ほど掛ったのである。が、二人はなかなか帰って来なかった。浮かぬ顔をして火鉢に凭れながら無気力に待っていると、浅ましい気持になった。
 二時間ほど経ってやっと足音がしたかと思うと、赤井は真赤な顔をして帰って来た。
「君ひとりか?」と訊くと、赤井は酒くさい息をはきながら、「野崎の奴いくら待っても来ないんだ。一時間以上も待たされた。いつもの伝《でん》だと思ったから、諦めて京極で酒を飲んで帰って来たんだ」
 試験中でなにか殺気立っているだけに、赤井は常になくぶりぶり怒っていた。ノートが無いから、勉強の仕様もなく、二人で無駄話をしていた。だんだん夜が更けて来たが、野崎が帰って来ないのでもう明日の試験は諦めようと、興奮しながら言い合っているところへ、野崎がノートを持ってしょんぼり帰って来た。もう十時過ぎていた。
「なんや、赤井、君帰ってたんか?」妙な顔をしてそう言う野崎に二人はあきれてしまった。
 訊いてみると、案の定、野崎はうっかりして約束の時間を間違えたのだった。赤井が出たあとへはいって行って、赤井はえらい遅いなと思いながら、一時間半も待っていたとのことである。一足先に帰るということも考えたが、赤井があとから来ては困ると思ったのと、一つには寒い夜道をひとりで鹿ヶ谷まで帰るのが淋しかったので、いつまでも待っていたのである。
「馬鹿だなあ。僕が来たか来なかったか、八重ちゃんに訊けば分るだろう」
 赤井はぷりぷりした。八重ちゃんが自分の来たことを野崎に言わなかったことで、なにか自尊心を傷つけられた気持もあった。が、実は野崎は殆んど毎日のように赤井と通いながら、八重ちゃんにその存在を認めて貰えぬほど、かすんでいたのである。
 いよいよノートを拡げたが、野崎のために四時間も無駄にしたかと思うと、阿呆らしくて気乗りがしなかった。
「野崎、そう悄気るなよ」と、豹一が慰めたが、野崎は虚ろな表情で、しきりに責任感に悩まされていた。そんな野崎の気持がほかの二人にも乗り移って、結局わざわざ疏水伝いに銀閣寺の停留所附近まで出掛けて、珈琲をのんだりし、ろくに勉強も出来なかった。豹一は諦めて、先に秀英塾へ帰ってしまった。野崎と赤井は出町まで足をのばして、徹夜に備えるのだと珈琲を何杯ものんだ。下宿へ帰っても、無駄話ばかりで、なんのための徹夜かわからぬありさまだった。そのため歴史の試験は散々だった。おまけにそれに気をくさらして、あとの試験も上出来とは言えなかったのである。
 だから今度の落第はかえすがえす野崎に原因していると言えば言えたのだ。が、それを自覚してすっかり気をくさらしている野崎を見ると、二人はそれには触れなかった。
 京極へ出ると、先ず「リプトン」へはいった。それから「ヴィクター」へはいった。出ると、長崎屋の二階へあがった。豹一はそのたびに、もはやここも見収めかと、さすがにしみじみとなつかしい眼で、部屋の中を見廻し
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