た。意味もなく、京極通りを歩きまわり、疲れると、さてこれからどうしようと、町角でぽかんと、突っ立っていたりした。行きつけの店を一廻り廻ってしまうと、すっかり気がぬけたようになって、行先を思案するために突立っている彼等の顔は、どれも間が抜けて、憂欝そうだった。映画館へ行くにしても、どこの演《だ》し物も面白くなさそうだと、一つ一つあげてつまらなくこきおろしていた。結局もう一度「ヴィクター」へ行こうと赤井が浅ましく言い出すと、なんとなくそう決って、ぞろぞろと四条河原町の小路をはいって行った。
「一日に二度もちょっと体裁が悪いな」
八重ちゃんに気がある赤井が拘泥って言うと、
「そやな、体裁が悪いな。一日に二度も」野崎は元気のない声で言った。彼は「ヴィクター」で一番醜い、男か女かわからぬような顔をしている女の子に参っていると、日頃否定もしなかった。そう言えば「リプトン」のカウンターにいる化物みたいに脊の高い女の子にも、野崎は「肩入れしてる」らしかった。「ヴィクター」を出ると、だから「リプトン」へもう一度行った。そうして、時間を潰しているうちに、日が暮れた。半時間ほど思案した挙句、京極裏の牛肉屋ですき焼きをした。豹一ははじめて、
「僕はもう三高を止《よ》す」と言い、理由を訊かれたので、落第すれば秀英塾では給費を断る規定になっているのだと、説明した。
「もう君達にも会われないな」そう言った拍子に、急に眼の裏が熱くなって来た。結局何の意味もない三高生活だったが、赤井と野崎を知ったことがせめてもだと、さっきからそのことばかり考えていたのだった。
「止めなくても良いと思うがな」と赤井は言って、暫く深刻な顔をして考え込んでいたが、ふと顔をあげて、
「名案があるぞ、共済会へ頼んで家庭教師の口を見つけて貰うんだ。そうして野崎と僕の部屋で三人一緒に下宿したら、下宿代は助かる。ねえ、そうしろ、そうしろ」
「そや、そや。家庭教師がええ。三人一緒に下宿したら面白いやないか」野崎も言った。豹一は嬉しかった。自分の貧乏がこうして話題になっていることも、不思議に、恥しく思えなかった。しかし、三高を止す決心は変らなかった。
豹一の三高を止める決心が容易に翻らないと分ると、赤井と野崎はしんみりと酒をのんだ。そして、酔が廻って来ると、彼等がもうあと三年いるべき学校を、口を極めて罵倒した。もうこれがお別れだと、三人は夜が更けるまで京都の町を歩きまわった。その挙句、赤井と野崎は宮川町へ行くことになり、豹一は南座の横の暗い道を折れて、二人を送って行った。真白く化粧した女がぞろりと派手な着物を着て坐っている家の前で、豹一は二人と別れた。女の眼が無気力な笑いを泛べてじろりとこちらを向いた。豹一は南座の前から電車に乗って秀英塾へ帰った。
豹一はその夜のうちに荷物を纒めて朝運送屋へ頼み、午頃「ヴィクター」で赤井と、野崎の二人と落合った。そして、二人に見送られて、四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。
第三章
一
豹一が学校を止めたと聞いて、
「やめんでもええのに、しゃけど、お前がやめよう思うんやったら、そないしたらええ」と、お君は依然としてお君だったが、しかし、暫く見ないうちに、お君はめっきりやつれていた。眼のまわりが目立って黝んでいた。
未だ三十六だったが、眼のまわりの皺は四十を越えていた。髪の毛は油気もなく、バサバサと乾いていた。仕立物の賃仕事に追われていたのだと、豹一は見るなり思い掛けず涙が落ちた。昨日までうかうかと高等学校の生徒であったことが、われながら不思議なくらいだった。呑気に赤井や野崎と遊び廻っていたことなど遠い昔のようだった。想い出されもしなかった。想い出せば、母親に済まない気持になるところだった。高等学校を止めたということが極く当然のことだったと、今はその気持がすっかり身についてしまった。
高等学校の学資は秀英塾から出ていたから、もう母親は針仕事の必要もないと豹一は思っていたが、そう言う訳には行かなかったのだ。豹一に小遣を送ってやるためだけではない。豹一が中学校へはいった時に、お君は安二郎から金を借りた。借りただけの額は全部渡してしまった筈だのに、安二郎は、
「わいの計算では未だ三百円残ってる。これでもお前のことやから大分利子をまけたってるねんぜ」そしてお君の貰う仕立物の賃をまきあげるのだった。お君は豹一に送るために貯めている金を隠すのに苦労した。
そんな事情がわかると、豹一は、なんと言う夫婦だ、これでも夫婦といえるかと、もう少しで安二郎と別れてしまうように母親を説き伏せるところだった。母親は不平らしい愚痴一つ言わず、「あてはどうでもよろしおま」と言う顔をしているのが、一層あわれだった。しかし、母親と一緒に飛び出して、食べて行ける当もなかった。豹一は毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。質札を売りに来る客と応待する合間を盗んで、履歴書を書いた。楷書の字が拙かったので、一通書くのに十枚も反古が出来た。十通ばかり書いたが、面会の通知は一通も来なかった。履歴書を返送して来る方は良い方で、たいていは何の返事もなかった。十八歳までの半生が踏みにじられたような情けない気持になった。自尊心を傷つけられたと腹を立てるよりも、自分は就職など出来る人間ではないのだと自信のない気持でしょんぼり気が滅入った。店の間のテーブルに肘をついて、野瀬商会と白ぬきの文字のはいった暖簾を見ながら、欠伸をかみ殺して客を待っていると、そうして高利貸の手代みたいになっていることがいかにも自分に似つかわしいように思われる。それがたまらなくいやだった。返送されて来た履歴書を書き直す元気もなく、手垢のついたまま別のところへ送る時は、さすがに浅ましい気持になった。
ある日、製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、広告文案など作れそうにもなかったが、とにかく三つばかり文案を作って履歴書と一緒に送ったところ、一週間ほど経って面会の通知が来た。文案がパスしたと思うと嬉しくて、俺に文才があるのだろうかと、ふと赤井が三高の「嶽水会雑誌」へ小説を投稿して没にされたことを想い出したりした。ひょっとしたら面会の時の口答試問ではねられるかも知れないと心配もするなど、豹一はそわそわと落ち着かなかった。
面会の日、朝早くから起きて朝飯もろくろく食わずに玉造にある製薬会社へ駆けつけてみると、所定の時間には未だ一時間あった。半時間も早く出頭するのは癪だとふと思ったから、門からひきかえして近所の五銭喫茶店へはいって、演芸画報を見たり、新聞の就職案内欄を写したりして時間を潰し、きっちり午前九時に、受付へ出頭して葉書を見せると、可愛い少女の給仕に二階の粗末な応接間へ連れて行かれた。給仕が出て行ったあと、直ぐむやみに髪の毛の長い男がはいって来て、不安そうな眼をしょぼつかせて椅子に腰掛けると、
「あんたも応募でっか」と訊いた。
「はあ」と曖昧に返事していると、
「面会の通知来たんはあんたと僕と二人だけでっか」
豹一が返事しないので、
「ほかにも応接間あるよって、未だほかに待たされとる奴がいまっしゃろな。なんしょ、ここは大けな建物やさかいな。――何人ぐらい採りよるかな」馴々しい口調だった。
「さあ、何人ぐらいでしょうな、五、六人、それとも――。数名採用とありましたね」豹一は思わずそんな返事をしていた。
「いくら呉れまっしゃろな? 六十円、それぐらいは貰わな食《く》ていかれへんがな」
「そうですね。六十円ぐらいでしょうね」豹一はそんな無気力な返事をしている自分が情けなかった。
「ほんま言うたら、六十円でもやって行かれしまへんネん。子供《がき》が二人も居よりまんネん。きょう日《び》物が高《たこ》おまっさかいな」
「二人もね」
「ええ、二人もいよりまんネ。もう直き三人ですわ。さっぱりわや[#「わや」に傍点]です。しかし、ここの会社アはえらい家族主義や言いまっさかい、まさか社員が食て行かれんようなことはしまへんやろ。その代り、よう働かしよりまっしゃろな」
「はあ、家族主義ですか?」豹一は自分の返事が野崎に似ていると思い、さすがに苦笑した。長髪の男はぺらぺらと喋り続けながら、神経質に膝をふるわせているのだった。不安な気持を誤魔化すためにこんなに喋っているのだなとふと思った。
気の抜けた空虚な表情で、ぽかんと呼出しを待っていたが、誰も部屋へ来なかった。
「えらい待たしよりまんな」
長髪の男がぼやいた[#「ぼやいた」に傍点]ので、豹一ははじめて、活気づいた。
(こんなに待たされるというのはお前らしい運命だぞ!)
何に向ってか分らぬそんな敵愾心めいたものが出て来て、眠気が消えてしまった。しかも、未だそれより一時間も待たされたので、豹一はすっかり腹を立ててしまった。呼びに来た少女の給仕が豹一の表情を見てびっくりした程であった。
(こんなに腹を立てていては、口頭試問の成績は悪いに決っている)さすがに自分にもそう言い聴かせるぐらいだった。
「お先に」
長髪の男へそう挨拶して、少女のあとに随いて廊下へ出た。廊下の突き当りの部屋へはいると、七、八人の試験官の眼がいっせいにじろりと来た。
(おおぜい居やがる)ぱっと眼の前が燃えてもう少しでお辞儀をするのを忘れるところだった。周章てて頭を下げ、二、三歩進んだ拍子に椅子に打っ突かってしまった。
(俺らしい失敗《へま》だ)と、もう自分にも腹を立てて、どすんと音を立てて腰掛けた。醜いまでに真赤になっていることが意識された。それが情けなくて、むっとした顔を上げた。その顔を見た途端に一人の試験官は「不採用」とメモに印をつけた。
「なぜ和服を着て来たんですか?」豹一の着流し姿を咎めて、一人が訊いた。椅子へ足の爪先を打っ突けたときの痛みが消えていなかったので、豹一は顔をしかめながら、
「洋服が無かったからです」と答え、(着流しはおもしろくなかったかな?)と思った。
「高等学校の制服はあるでしょうね」
「はあ、しかし、もう学生じゃありませんから」
「なぜ退学したのですか?」
「つまらなかったからです」
「赤じゃなかったんですか?」
「いや、落第したんです」
「理由は?」
「怠けたからです」もはや試験官の誰もが豹一の不採用を疑わなかった。広告文の出来が良くても、中学校から三高へはいった秀才でも、小さな会社ならいざしらず、うちのような大会社ではこういう男は困るのだ。しかし試験官よりも前に、もう豹一は不採用を覚悟していた。
「御苦労でした。結果は追って通知しますから」
丁度正午のサイレンが鳴っていた。三時間待たされたわけだと、豹一は思った。ひどく物腰の鄭重な男に見送られて、廊下を歩きながら、豹一はあの長髪の男はたぶん昼食の時間の済むまでもう一時間待たされるだろうと思った。
一週間経つと、不採用の通知が来た。その会社で発売している薬の見本袋が封筒の中にはいっていた。なるほど家族主義だなと思いながら、豹一はそれをごみ箱へ捨ててしまい、また履歴書を書いた。翌日の新聞に、その会社の広告文案募集の広告が出ていた。
二
豹一が就職を焦っているのを見て、お君は、
「なにもお前が働かんでもええ」と言ったが、そう言われると豹一は一層焦った。毎朝新聞がはいる音で眼が覚めた。寝床のなかへ持ってはいって眼を皿のようにして、就職案内欄を見た。適当と思われる募集が出ていると、もうそわそわして寝つかれなかった。就職とはこんなに困難なものかと、なにか慄然とする想いだった。
ある日、「調査係募集。学歴年齢ヲ問ワズ。活動的人物ヲ求ム。某財閥直営会社。本日午前十時中央公会堂二階別室ニテ面会ス」という広告を見て、中之島の中央公会堂へ出掛けたところ、調査係とは体の良い口調で、実は生命保険の勧誘員のことだった。しかし、ここでも年齢が若すぎるという理由で断られた。
「せめてもう一つ位年が行っていたらな。来年もう一ぺん来とくなはれ、なんとかしまっさかい」と、代理店長らしい男に言われた。
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